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hayakawaさん

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消えた天才シェフ

19/05/03 コンテスト(テーマ):第168回 時空モノガタリ文学賞 【 レシピ 】 コメント:0件 hayakawa 閲覧数:201

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 僕がイタリア料理店に取材に行ったのは八月の夏の太陽が照り付ける日だった。僕は出版社のライターでその日、雑誌のページに掲載する料理店をインタビューした。
 店が始まる前に僕は取材のため、客のいない店内のテーブルに座っていた。オーナーシェフは三十台半ばで業界では天才として知られているらしい。
 ウェイターの女性が僕にアイスコーヒーを持ってきてくれた。
「わざわざすみません」
 僕は頬に伝わる汗をハンカチで拭きながら答えた。
「待たせてしまってすみません。シェフは気まぐれな性格で今まで取材は断ってきたんですが、今回はどうしてか取材を受け入れたんです」
「シェフのことについて少し聞いてもいいですか?」
「ええ。どうぞ。答えられる範囲ならなんでも話しますよ」
「どうして業界では彼のことを天才と呼ぶようになったのでしょうか?」
「それはシェフの料理を食べてもらったらわかると思います」
 シェフが来たのは待ち合わせの時刻の少し後だった。
「待たせてしまってすみません。私がこの店のオーナーでシェフをしています。よろしくお願いします」
「こちらこそ。今回は取材を受け入れてくれてありがとうございます」
「ええ。私も今までは取材は断ってきたんですが、今回は取材を受ける決心をしたんです」
「それはどうしてですか?」
「どうしてなんですかね。私にも明確な理由はないのです」
 僕はシェフに取材をした。料理人になろうと思った理由は何か、仕事に誇りはあるかなど。そして最後になぜあなたは天才と言われているのか聞いた。最期の質問をするとシェフは曖昧に首を振った。そしてぜひ私の料理を食べてみてくださいと言った。
 僕は会社に帰り、取材した内容を記事にした。
 ある日、偶然シェフの店の近くを通りかかったとき、僕は店に入った。中は昼間より客がいるせいか活気に満ちていた。僕は手ごろな値段のパスタを注文した。赤ワインを飲みながらシェフについて考える。
 パスタが運ばれてきたとき、僕はわずかに香る匂いをかぎ取った。どことなく高揚する香りだ。
 一口食べると、頭の中を突き抜けるような高揚感をもたらす味を感じ取った。まさに、天才が作った味だ。
 店を出ると、夜の星空が輝いている。そしてパスタを食べた後の興奮が冷めやらなかった。こんな味は三十年間生きてきて食べたことがない。ライターになって様々な店を取材してきたが、こんなに人を興奮させるくらいの味などなかった。
 僕は次の日もう一度取材を申し込んだ。シェフは取材に応じてくれることになったが、最後に「これが最後です」と言った。
 取材の日に店に行くと誰もいなかった。僕が閉まった店のドアを開けると中に入ることができた。
 僕は店内に誰もいないので、立ったままシェフを待っていた。
 シェフは待ち合わせにこの前のように少し遅れてきた。
「たびたびすみません」と僕は言った。
「いえいえ」
 シェフは謙遜して言った。
 僕は興奮冷めやらぬ気持ちでこの間料理を食べた感想を話した。
 シェフは僕の言葉をただ真剣な面持ちで聞いていた。
 そして「やはりあの料理は素晴らしいでしょう」と言った。
「あなたが作った料理ですよ。あんな料理は今まで食べたことがなかったです」
「実はあなたに隠していることがあるのです」
 シェフはそう言って厨房に向かい、一冊のノートを持ってきた。
「それは?」と僕は言った。
「この店のレシピです」
「あなたが作ったんですか?」
「私の妻が、死んだ妻が作りました」
 僕はノートを手渡され、中を見ると、細い字で分量から調理時間まで事細かく書かれていた。
「私の妻は紛れもなく料理の天才でした。でもそれをひけらかそうとはしなかった。作る料理は計算されつくした値段に適正な味でした。彼女は死ぬ前に病院でこれを書いたのです。私は彼女の死後このレシピ通りにしか料理を作っていません。すばらしい味でしょう」
 シェフは悲しそうに笑った。僕は何も言えなかった。
「私はこの事実を伝えたかったのかもしれません。私が天才ではなく妻が天才だったということを。あなたの取材に応じたのも、どこか自分が真実を伝えたいと思っていたからかもしれません」
 僕はただ話を聞いていた。そしてこの間食べた味を思い出す。料理で人を熱狂させる威力を思い知ったのだ。
「まさか奥さんが天才だったなんて」
「でも私にはそんなことはどうでもいいのです。本当は妻を愛していた。彼女が今でも側にいてくれたら、そのことしか考えていません」


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