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北 流亡さん

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サイダーガール(ズ)

19/02/18 コンテスト(テーマ):第165回 時空モノガタリ文学賞 【 弾ける 】 コメント:1件 北 流亡 閲覧数:98

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トラックが、朱に染まり始めていた。
タータンの茶色と刻まれた白線が曖昧になっていた。
遥香はそれを見て、何時間も観客席に居たことを自覚した。
ひたすらに、静かだった。
地面が蹴られる音も、槍が空を切る音も、何も無かった。
風が草を撫でる音。それだけがあった。
明日から、もうこのトラックで走ることは無い。「部活」という物語は、今日終わったのだ。
遥香は、スタッフロールが流れきった後の舞台を、第三者のような視点で眺め続けていた。
喪失感は無かった。ただ、実感が無いまま、空白になった時間を弄んでいた。
朱に染まったトラックが、陰射し始めていた。
もう、帰らなきゃ。遥香は立ち上がった。
「おつかれ」
その時、声がした。背後に渚が居た。
「…いつから居たの?」
「ずっと」
渚は顔を綻ばせて言った。汗が、渚の肌に滲んでいた。遥香もそうであった。遥香が長い時間、晩夏の日射しに晒されていたのと同様に、渚も晒されていたのだろう。

いつもの帰り道は、朱から藍に移りかけていた。二人は、いつものように並んで歩いた。三年間、ほとんど毎日、こうして分かれ道まで帰路を共にしていた。
今日はどちらも口を開かなかった。いつもは喧しいくらい笑い合っていた。同じ方向を向いて、いつもより少しだけ、ゆっくりと歩いていた。
風が吹いた。夏を冷ますための風。それでも、まだ空気は熱を帯びていた。まるで、季節が秋になることに抵抗しているかの様に。
「まだ、暑いね」
ようやく、渚が口を開いた。視線は合わさなかった。
「うん」
それだけ、答えた。また、沈黙が訪れた。
いつもの道、いつもの住宅街。いつもの風景がただ過ぎて行った。
郵便局のあるT字路を右に曲がる。閉店した個人商店と赤い自販機が見えた。
「あ、そうだ」
それを見た渚は、そう言うと財布を取り出して、小銭を自販機に入れた。
なんだかその動作自体が、ひどく懐かしいように思えた。

願掛けのようなものだった。
二人で「陸上に命を賭ける」と約束した入部初日、「引退する日まで炭酸飲料は飲まない」という誓いを立てた。
スポーツ科学とか、有名なメソッドに則ったわけではない。二酸化炭素がなんとなく運動に悪影響を及ぼしそうな気がしたこと、何かを我慢することで見返りを得られるかもしれないということという、何ら根拠の無い、二人だけに通じる理論で始めたことだった。
それが本当に効果があったかは定かでは無い。しかし、結果だけ見たら、二人ともインターハイ出場という目標を成し遂げた。

渚は喜色満面の笑みで、自販機からペットボトルのサイダーを取り出した。
「飲んじゃお?」
遥香は困惑を顔に浮かべた。禁忌があっさりと姿を現した。
これを飲んだら私はどうなるのだろう。これを飲んだら渚はどうなるのだろう。
渚が腕を伸ばして差し出してきた。透明な容器の内側で、水面が揺れ、二酸化炭素が上っていた。蠢く劇薬。遥香の目にはそう写った。
思わず、狼狽えた。そんな遥香を見て、渚はまるで攻撃対象を見つけた猫のような、いたずらな笑みを浮かべた。
渚は、顔を覗き込むと、蓋を開けた。二酸化炭素が勢いよく外に出た。
そして、それを口に入れると、一気に嚥下した。喉の音が鳴る。
はー、と息を吐き、渚は満足そうな表情を浮かべる。
今、渚の中でサイダーが弾けている。その気泡が一つ一つ弾ける度に、渚が作り変えられていく。それは、空虚な競技場を眺める以上に喪失感を与えた。
渚はもう一口、サイダーを含んだ。そしてすばやく遥香に近づき、口づけをした。遥香の口内に禁忌が舌と一緒に流れてきた。
口の中で二酸化炭素が弾けて、粘膜を焼いていく。それが通り抜けていくと、甘さが、罪の味が広がった。喉には冷たさが過ぎて行った。
互いの舌で、しばらく余韻を転がした。それも無くなると、どちらからともなく口を離した。
不意に、不安感がやってきた。陸上を失った自分はどうなってしまうのだろう。渚はどうなってしまうのだろう。
見つめ合った。なんとなく、渚も同じことを考えている気がした。
「ねえ」
渚が口を開いた。
「遥香は大学行っても陸上続ける?」
遥香は口を噤んだ。考えても無かった。
「私はね、別な事をするつもり」
渚はそう続けた。今日で部活は終わるのだ。遥香は何も言えなかった。

また、黙ったまま帰路を進んだ。そして、分かれ道に差し掛かった。
「じゃあね」と渚は言う。
「じゃあ、ね」と遥香が返す。
遥香は振り向かずに自宅までの道を歩いた。
陸上を失った自分はどうなるのだろう。渚を失った自分はどうなるのだろう。
あのサイダーは渚を変えた。自分は、変われるのだろうか。
答えは、出なかった。
空には、三日月が浮かんでいた。
遥香は一人、立ち尽くしてそれを見上げた。
甘さだけが、口の中に残っていた。


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このストーリーに関するコメント

19/03/01 雪野 降太

拝読しました。
部活終わりの心許ない空気感が季節の描写と相まって巧みに表現されていると感じました。『「陸上に命を賭ける」』という学生らしいノリと勢いの願掛けまでもが、この瞬間には重大事に思えてしまう。そんな描き方が個人的に好みでした。
読ませていただいてありがとうございました。

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