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井川林檎さん

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ぽんっ

19/01/31 コンテスト(テーマ):第165回 時空モノガタリ文学賞 【 弾ける 】 コメント:4件 井川林檎 閲覧数:233

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 「それで。検査結果によっては、おろすの」

 台所は明るかった。麦茶を飲みながら、わたしはぼそりと、おろしたくないんだけど、と、答えた。
 
 胎動らしいものは未だ感じない。本当にここにいるのだろうかという疑問は、激しい悪阻によって、力づくで納得させられた。こどもがここに宿っているという事実は、強く、確実に、わたしを苛んだ。
 検査結果が出るのは、おなかがもっと出て来た頃になる。
  
 じいわじいわと油蝉が鳴きはじめる。
 母は、首に巻いたタオルで頬の汗をぬぐった。年寄り夫婦の家らしく、実家は冷房を嫌う。

 「どんな子であっても産みなさい。面倒、見てあげるから」
 と、母は言い、わたしは泣きそうになる。追い打ちをかけるように、母は、「障碍持ちの子は、それはそれで可愛いもんなんだよ」と言った。
 保育士として長年働いて来た母は、さぞ色々な子供を見てきたことだろう。わたしは喉が詰まってお茶が飲めなくなり、理由をつけて、すごすごと実家を後にした。

**

 夫はそもそも子を望まなかった。結婚の条件のひとつに、「子供は無理」というのがあった。
 現実に子供が宿ったということを知った時、夫は嬉しい顔を見せなかった。わたしは40間近の初産、夫は45を超えている。夫は障碍児の誕生を恐れた。
 ダウン症の検査を受けることになり、実際にどんな検査をするのか知らされた時、ぞっとした。おなかに針を刺し、羊水を取って、それで検査をするという。もちろん色々なリスクがあった。
 毎日、午前2時を軽く超えた時間に帰宅する夫である。ろくに語り合う暇もなく、検査の日を迎えた。爽やかな風が吹く晴れた日の朝、わたしはひとりで検査に臨んだ。
 注射針に吸い取られた羊水を見せられた。それは黄金に輝くシャンパン色であり、この輝きの中に子がいるのだと知った。綺麗だなと思っていたら、看護師から、これは胎児のおしっこの色だと聞かされた。

 検査を受けた晩、わたしは泣きながら眠った。夫が帰ったのはわたしが眠ってからであり、その日の思いを伝えることができないまま、時間は過ぎた。

**

 秋が少しずつ深まる頃、羊水検査の結果が出る日が近づいた。
 明日の通院で、先生から結果を聞かされることになる。

 おなかは大きくなり、ずいぶん苦しめられた悪阻も消えた。ものを食べたら、おなかの子にもおいしいエネルギーが行くのだろうかと考えるようになった。
 無意識におなかに手を置くようになった。羊水検査の結果が出たら、子供の性別も判明する。

 「結果もうすぐ出るんだけど」
 と、夫に告げたことがある。夫は「そうだね」と答えるだけだった。結果によっては産まないでほしいとか、逆に、どんな結果でも産めばいいとか、特になにも言おうとしなかった。
 その曖昧さは狡いものだった。面と向かって「ねえ、あんたが言ったから検査したんだよ」と啖呵を切ることができればどんなに良いだろう。
 けれど、おなかに子を宿しながら、その子のことで夫と言い争いをするのは避けたかった。詰め寄ることができない自分を甘いとは思ったが、言い争いをおなかの中で聞いた子の気持ちを想像するだけで泣いてしまいそうだった。

 ダウン症。障碍児。
 ネットで検索をして、実際にダウン症の子供を育てているひとのブログを見たりもした。
 
 「明日、結果が出る。もし……」

 嫌になるほど時間はのろのろ進み、夜は更ける。
 床を敷いて横になり、暗い部屋の中で寝返りを打った。夫はまだまだ帰らない。
 
 「無理だよ」
 なだめるように優しく、だけど頑とした口調で言った夫。そうだ、わたしたちは高齢で、障碍を持つ子を最後まで面倒を見ることはできない。それならば、いっそ。
 (かわいそうにかわいそうに、わたしなんかの元に宿って)
 未だに胎動がない、子。
 この子が静かなのは、もしかしたら、こんな迷いを抱いているわたしの元に生まれてきたくないと思っているのかもしれない。
 わたしは、そんなことを本気で考えるほど暗く落ち込んでいた。

 りんりんりいん。
 澄んだ虫の音が窓から飛び込んで来る。
 
 「あ」

 その時、下腹部の奥深いところで「ぽんっ」と、弾けるような感覚があった。
 その感触は、わたしがどんなに悩んでいようが関係なく、無条件に明るく楽しげだった。

**

 わたしは心を決めた。
 「大丈夫、なにがあっても、どうあっても、あんたを産んで育てるからね」

 微かな胎動は、何かの合図だったのだろうか。
 涙はまだ流れたけれど、ついに心を決めたわたしは、明日に向けて今は眠ろうと思った。
 産科は混む。待ち時間だけで、どんなに疲れることか。

 「おやすみ、わたしの大事な子」


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このストーリーに関するコメント

19/01/31 風宮 雅俊

子どもを生む事が出来ない男性には理解しえない奥深さを感じながら読みました。

19/02/01 イト=サム・キニー

拝読しました。
『産科は混む。待ち時間だけで、どんなに疲れることか。』という一文に臨戦態勢というか……覚悟のほどがうかがえる主人公の力強さがうかがえる作品でした。
読ませていただいてありがとうございました。

19/02/02 文月めぐ

拝読いたしました。
タイトルの『ぽんっ』からは想像もできない重たいテーマを扱っていますが、エンディングは希望が見えました。
主人公の未来が明るくなることを願わずにはいられませんね。

19/02/15 クナリ

渦巻く感情が痛いほどでした。
なかなかうまくコメントできませんが、印象的な作品です。

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