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秋 ひのこさん

歯について考える時、右と左がよくわからなくなります。右奥だっけ、左奥だっけ。虫歯が絶対にあると思われるあの場所を伝えるべく「ええと、右です。そして上な気がします」と言ったら先生が「うん、上は上でも左ですよね」とか言う瞬間が恥ずかしいので、虫歯は放置しているような人間です。 ……ということも言ってられず、ついに虫歯を治療しましたところ、ちっとも奥歯の不快感が消えてくれないので、「先生、虫歯を見落としていませんか。虫歯がまだ残っていると思われます」と大変失礼なことを尋ねてみましたら、「それ、本当に歯が痛いのですか。歯茎は少し腫れていますが、本当に歯ですか」と逆に聞かれ、やっぱり恥ずかしい思いをしました。こんにちは。 

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人生の階段

19/01/21 コンテスト(テーマ):第164回 時空モノガタリ文学賞 【 着地 】 コメント:2件 秋 ひのこ 閲覧数:157

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 僕は人生とは登るのではなく、降りるに近いと思うのだ。
 と、先生は言った。
 何かを達成する度に、どん、とどこかへ着地するように思うのだ。故に、人生は一段ずつ降りていくことの積み重ね。最後の最後に到達した地、もうそれ以上降りる場所のないその地こそ、安寧の地なのだ。僕はそこではじめて両手両足を広げ、大の字で安心して眠りたい。
 人生の師である先生に繰り返しそう言い聞かされたため、17歳のHもまた、人生は下へ向かうものだと想像する。
「達成とはやはり上にあるものだよ」
 と、友人のTは言う。「汗水流して登って、目指して、辿り着く高みこそ、人生の醍醐味だ」
「醍醐味だって? どーんと地面に両足をつけた時に感じる安定に勝るものはないよ。固さを確かめ、よし、ここからまた次を目指そうというものだ」
 Hが語る先生の持論を、学友たちは笑った。

 卒業を前に、Hの書いた小説が名のある同人誌に採用された。
「おめでとう。ひとつやり遂げたね」
 手渡された同人誌をめくりながら、先生は静かに応じた。
「はい。応募して宙ぶらりんになった身体が、降りるべき場所に降りた気がします。達成とは着地。こういうことかと、初めて実感できました」
 Hは興奮して話す。
「うむ」
 先生はぱたんと本を閉じ、脇へやった。

 Hは卒業し、鉄道会社に就職した。どん、安定の職という地に一段降りる。仕事の傍ら小説を書き続け、時折同人誌に載った。どん、どん。気立てのいい娘と出会い、結婚した。どん。子供が産まれた。どん! じわじわと口コミで広がった評判に支えられ、小説を出版することになった。どーん。子供が小学校に上がる頃、地方の室長に任命された。どーん!
 物事を達成するたびに、Hは先生に報告に行った。そして、いかに先生の理論が正しいか、熱を帯びた口調で語った。
「他の者はひたすら上を見上げてもがいておりますが、違うのですね。そうではない。勇気を出してひょいと身を投げ、歯を食いしばって着地を待つ。その衝撃に耐える。僕は本当にそれがわかるのです。どーんと降り立った瞬間のヤッターという喜びは、よいせよいせと階段だか山だかを登る連中にはわかりませんよ」
「うむ」
 先生は相変わらず関心なさげに相槌を打つ。
 君、悪いけどもう来ないでくれ、という声が頭上から落ちてきたのは、三和土で靴を履いていた時のことだ。上がり框からぼんやりHを見下ろす先生が、ちょっと新聞買ってきてくれ、というような調子で言ったのだ。
 え、と靴紐から手を離し、体を起こす。
 先生はやはりよく読めない表情のまま、さようならだ、と言った。

 Hが次に先生の家の敷居をまたいだのは、先生の葬儀のためだった。来ないでくれ、と言われてから10年が経っていた。
「先生は、あなたに嫉妬していたのです」
 と、葬儀の後で先生の奥さんは言った。見せてもらった先生の書斎は、10年前と何ら変わらず、ただ、本棚の下の方にHがこれまでに出版した3冊の小説が、埃をかぶって重ねてあった。
「嫉妬?」
「若く情熱があり、どんどん人生を切り開いていくあなたを妬ましく思っていました。あなたが成功を語るたび、先生は内にこもり、荒れるようになりました」
「そんな」
「病に臥せってからはずっと、それはもう朝から晩まで最後の着地点の話ばかりしていました。せめて本当の終わりくらいは、Hに誇れる立派なものにしたいと。病で崩れるように終わるのだけは耐えられないと」
 先生が病だと耳にしたのは、3年ほど前のことだ。見舞いは、断られた。
「だったら治しましょうと励ましたのですが、まさかこんな風に決めてしまうなんて」
 そう言い、奥さんはすっと視線を窓へと流す。閉じられた木枠のガラス窓は、曇って外がよく見えない。
 先生の家は高台にある。近所の人の話によると、先生は街に出るような洋装で窓にしがみつき、大声を上げて飛び降りたそうだ。即死ではなく、落ちた半年後に思い出したかのように頭の血管が破裂し、逝った。
「情けない人。どんと落ちて逝ってしまえれば、せめて本望だったでしょうに」
 言葉が出ず、Hはただその場に立ち尽くす。懐かしい書斎の匂いに混じり、鼻が拒絶するような人間臭が漂っていた。病で死を前にした、先生の残り香か。
 Hは奥さんに近づき、そっと窓を開けた。眼下はただの、裏道。先生がいかに追い詰められていたか、想像し胸が痛んだ。
「先生は、死のうとして飛び降りたのではなく、着地しようとして飛び降りたのではないでしょうか」
 ふと、Hは強い確信をもってそう言った。
「どーんと両足をつけて着地すれば、今の状況を越えた次の場所へ行けると、そう思われたのではないでしょうか」
 奥さんが目を見開き、「だったら」とつぶやくと、窓から下を覗き込みほんの少し微笑んだ。


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このストーリーに関するコメント

19/01/21 雪野 降太

拝読しました。
面白かったです。『達成とは着地』という考え方が興味深かったです。『勇気を出してひょいと身を投げ、歯を食いしばって着地を待つ』という、積極的なのか、受け身なのかはかりかねるような主張も、持論ならではのものだと感じました。
読ませていただいてありがとうございました。

19/01/22 秋 ひのこ

入戸月づきしさま
こんにちは、感想をありがとうございます。
確かに受け身ですね! 指摘していただいて初めて気がつきました。
「先生」は意外とねちっこい人だと思うので、むしろしっくりくる気がします(笑)。
こちらこそ、読んでいただいてありがとうございました。

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