W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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19/01/05 コンテスト(テーマ):第1回 【 ミステリー小説 】 投稿スペース コメント:2件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:347

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 廊下をかけるタタタッという小刻みにひびく足音だけで慎二には、だれがきたかがわかった。
 あんのじょう孫の花香が、襖のすきまからひょっこり顔をつきだした。
「おじいちゃん、いま、いい」
 慎二はそれまで読んでいた本から顔をあげると、年よりがよくする老眼鏡の上からのぞきみるということは避けて、ゆっくり眼鏡をはずしてから花香をみやった。
「もちろんいいよ。はいっておいで」
「ノンコたちはいないわね」
 部屋に足をふみいれると花香は、わざとらしく室内をみまわした。
 ノンコたちというのは、花香の姉の紀香と、妹の磯香のことで、この二人がいつもいっしょに行動するのにくらべ、花香は単独行動を好んだ。仲がわるいのかというと、そうでもないらしく、庭で三人仲良く遊んでいるところをなんども見かけている。
「だれもきてないよ」
「そう」
 彼女は安心したように表情をゆるませた。
「おじいちゃん、あたし……」
 いったきり、なかなかその先をきりださない彼女に、慎二はうながすように、
「どうしたんだい。気にすることはないから、おいい」
 彼女は、これまでとおなじぐらい黙り込んでから、思いつめた時のそれが癖で、唇を一度ぎゅっとひきしめてから、ようやく口をひらいた。
「あたし人を殺したくなったの」
 その一言にショックこそうけたものの慎二は、字義通りにうけとめてたじろぐようなことはせずに、いまの花香の言葉を多角的に検討する姿勢をとろうとした。
 彼女はことし五歳になった。五歳の子供にとって『殺す』という言葉は、十円玉の裏表ほどにいたって単純なものにちがいない。大人ならそこに、どろどろした人間関係がからんで、ぬきさしならない状態においこまれたあげく、切羽詰まって発する言葉といえるが、五歳児のそれは、もっとほかにあるはずの表現方法がわからないために、たいして考えもせずに『殺す』という言葉をあてはめたのにすぎないのではないか。しかしそんな理屈を、いまの彼女につきつけてみたところではじまらない。
 慎二は彼女の絵本好きをしっていた。童話や民話のなかではあんがい、殺すことはめずらしくない。悪い狼や、花好きの善良な老夫婦の愛犬もあっさり殺されている。グリム童話なんかそれこそ、殺人のバーゲンセールではないか。もちろんかれらの死には、深い意味があって、無差別殺人のような色合いがないのは当然だが。五歳児にはまだそこのかねあいはあたりまえだがわからないだろう。テレビでながれるアニメではそれこそ毎日のように人を殺し、また殺されている。慎二はみないが、親たちは結構、時間になるとテレビのまえにやってきて、その種の番組を熱心にみいっている。孫たちだっていっしょにみている。
 慎二はそんなこもごもしたおもいを胸に抱きながら、彼女にむきなおった。
「いったい、だれを殺したいんだね」
 慎二は慎二なりに、花香が殺したいとおもっている相手を、すばやく頭の中でピックアップしてみた。
 意外とその数は多かった。近所の遊びなかまで、なぜか彼女を目の仇にしていじめるヤマちゃんという男の子がいた。この間なんかも、花香をおいかけまわしては、うむをいわさず彼女のスカートをまくりあげたり、体を押したり、こづいたり、とにかく彼女の嫌がることならなんでもやってのけるというやんちゃ坊主だった。花香は、てまえみそでなんだが育ちがいいせいか気質はおっとりしていて、いいかえしたり、ましてややりかえしたりなどとてもできない性格で、家に逃げもどっては部屋でしくしく泣いている場面を慎二も目撃したことがあった。
 あのヤマちゃんなら、花香の殺したい相手に選ばれる資格はあるとみていい。彼女ひとりにつきまとっていやがらせをするその気持ちの、裏を返せば彼女が好きだということぐらいらい誰にでもわかる。要するに、彼女の気をひきたいからにほかならない。
 慎二はしかし、その程度の悪ガキなら、花香の周辺にはいくらでもいることを知っていた。以前、庭で土いじりをしたとき、慎二といっしょにうえたチューリップが、きれいに花開いてふたりでよろこびあったあくる日、彼女の植えた花だけが根こそぎひっこぬかれて、庭のまえの路上にこれみよがしに捨ててあった。あまりのショックにながいあいだ口もきけなくなった彼女を、慎二もまた彼女といっしょに涙をながしながら抱きしめてやった。後日、三軒となりのミキが、じぶんのしわざだと白状した。ミキの家には庭がなく、またいっしょになって土いじりしてくれる優しい祖父もいなかった。その腹いせにチューリップが犠牲になったという、まったくもってあきれはてた理由が彼女をうごかしたのだった。ミキの母親がかわりの球根をもって謝りにきた。つれてこられたミキは、ひらあやまりする母の横で、にくにくしげに花香をにらみつけていた。
 彼女もまた、花香の殺人者リストにのせられてもおかしくないだろう。
 慎二は、ものは順番とばかり、
「ヤマちゃんかな、その相手というのは。もしそうだったら、おじいちゃんが彼にいってやるが――」
 慎二が口にすると、見当違いも甚だしいとばかりに、花香はおもわずぷっとふきだした。
「あんなばかな子、なんともおもってないわ」
「そうか。彼じゃないのか。それじゃ、あの――」
 そのとき、廊下のむこう側から、
「花香、いつまでおじいちゃんの邪魔してるの。はやくもどっていらっしゃい」
 母親の時子の声がした。
 そのとたん、花香の顔がさっとこわばるのを慎二はめざとくみとめた。
 時子は慎二の息子、雄三の妻で、そういえば彼女の花香にたいする態度には他の姉妹にはない、剣のようなものが感じられた。ちょくせつみたわけではないがいちどなど、ぴしゃりとひっぱたく音のあとに花香の、はげしく泣き出す声が聞こえたことがあった。そのとき彼がそのふたつのできごとを結びつけなかったのは時子の、ふだんの清楚で落ち着いたふるまいをみているからにほかならず、まさか彼女が、まだいたいけないじぶんの娘をたたくなど、夢にも想像できなかったのだ。 しかしその後、似たような状況がくりかえされるにつれ、いくら慎二がみとめたくないとおもっても、時子が花香ひとりに、ことあるごとに辛くあたることがあきらかになった。
 時子は富裕な教育家の親にそだてられ、外交官をめざして留学までした才媛だったが、渡航先で胸をわずらって途中で断念し、帰国して療養しているときに雄三とめぐりあい、三年間の交際をへて、結婚したのだった。商社につとめる雄三は、一年の半分は外国にいっていて、夫の不在からくる寂しさを顔にだすことはなかったが、あるいはそれがストレスになって、花香に辛くあたる要因となっているのでは……。
 慎二がはじめて、息子が家につれてきた時子をみたとき、その冷たいまでの美貌に、おもわず目をみはったものだった。明るさや陽気さは、人間的なよさこそあらわすが、美とは無関係だ。彼は時子をみてはじめてそのことに気がついた。彼女の美しさは、そのような人間的な要素をなにもかもをそぎ落としたうえにあらわれたものだった。
 花香にも、たしかにその美がみてとれた。ただしそれはまだ、可能の域をでなかったが、母からみればそこに、まぎれもなく自分の美貌の胚芽をみてとったことだろう。女の気持ちを理解など、慎二には到底できないものの、やがてはじぶんを凌駕する美貌を手にするであろうわが娘を嫉妬する心理はわかるような気がした。他の二人、紀香と磯香に被害がおよばないのは、彼女たちが父親の顔の系統を引き継いで、かわいくはあってもおよそ将来的にも美しくなる気遣いがまずないからではなかったか。そんな母親の心模様を、五歳の花香にとっては、母親がなぜ他の姉妹ではなくじぶんだけに辛くあたるのかがわかるはずもなく、そのため頻繁に慎二の部屋を駆け込み寺よろしくおとずれるようになっていたのではないだろうか。
 その後の時子と花香の両者を仔細に観察するにつれ慎二は、本当ははずれてほしいとねがっていたその恐るべき推測が、あながち的外れではないことがわかってきて胸を痛めた。
 それにしても、母親から冷たくあしらわれるという、子供にとっては耐え難いしうちにも、ただ唇をひきしめてだまっている花香のことが、不憫におもえてならずしぜん、彼女がきたときには心のすべてでかわいがるようになった。
 いままた母親によばれてもどっていった花香の心境をおもうと、なんとかしてやりたいという気持ちでいっぱいになったものの、このような微妙な女性の心理に関するできごとにはこれまでふれてきたことのない彼には、さてどうすればいいのか、見当のつけようがなかった。
 いましがた花香の口から出た、殺したい相手がだれなのかは、ここまでかんがえたら詮索する必要もないだろう。
 それにしても、この世にうまれてまだわずか五年というのに、母親を殺したいといわざるをえないとは。それをおもうと、おもわず慎二の口から深い溜息がもれた。その年頃なら、母親の手放しの愛情につつまれて、心から安心しきってあまえられるのがふつうだというのに。
「お母さんが呼んでるから……」
 いまにも泣き出しそうな顔で、花香は慎二をみつめた。どうしてとめてくれないのと、その大きくみひらかれた目は語っていたが、いまここでむりにひきとめたりすると、なおのこと時子からの風当たりが強くなることはあきらかだった。
「また、いつでも、おいで。わたしはいつでも、花香の味方だよ」
 それだけいうのが精いっぱいだった。こちらの気持ちがわかったとみえ彼女は、だまってうなずくと、そのまま廊下にでていった。
 無意識に慎二が耳をすましたのは、いまにも時子の花香をしかりつける声がきこえはしまいかと予期したからだったが、どうやら時子のほうもそれを察してか結局、幸いにも彼の耳には沈黙のほかにはなにもきこえなかった。しかしあまりにもしずかだとよけい、慎二は不安をおぼえずにはいられなかった。叩く音がきこえなくても、たとえば無視とか、態度や顔つきでの虐待が容易におこりえるのは、テレビや新聞に毎日のようにながれるその種のニュースをみるまでもない。
 慎二はおもいたってある日、花香の姉の、紀香を部屋に呼んだ。
「最近花香との仲は、うまくいっているかな」
 花香よりふたつ年上の紀香は、もちまえのひとのよさそうな目で祖父をみつめた。彼女をみると慎二はいつも、ポニーという種類のかわいらしい馬を想像してしまう癖がついていた。やっぱりちょっと馬面で、しもぶくれの顔がおかしいほどあいらしく、あらゆる意味で花香との共通点はおよそどこにもみつけることはできなかった。
「花香はあたしがさそっても、こないことがあるのよ。むりにいうと、おこったようにだまりこむから。自己中の猫みたいね」
「ふうん。ところで花香はお母さんとは、うまくいってるのかな」
 質問の意味がのみこめないのか、だまりこくっている紀香に、慎二はつづけていった。
「花香がお母さんのこと、なんていってるかしらないかい」
「さあ……」
「紀香は、お母さんのことどうおもってる」
「大好き」
「どんなところが」
「優しいところよ」
「花香もやっぱり、お母さんのこと、優しいとおもっているだろうか」
「さあ……」
「花香が嫌っている人間をしってるかい」
「それなら、しってる」
「だれだい、それ」
「磯子」
「どうして、磯子なんだ」
「だって、母さんいつも、磯子ばっかりかわいがって、花香のこと、ほったらかしにしてるじゃない」
 一番年下の磯子に、時子がもてるかぎりの母性愛をふりそそぐのは当然のことで、じつはそれを妬んでいるのは花香ではなく紀香じしんじゃないのかと慎二はいぶかった。まさか花香が磯子に殺意を抱くとはとてもおもえなかった。
「花香とは仲良くしてやってくれよ。おじいちゃんからのお願いだ」
「あの子がもうすこし、あたしによってきてくれたらいいんだけど――」
「そこはお姉ちゃんなんだから、紀香から、あゆみよっていってあげなくちゃ」
 素直に紀香はうなずくと、
「なるべくそうする」
「あとでお母さんに、ここにくるようにいってくれないか」
「うん」
 慎二は、紀香が部屋をでていってから、時子を呼んだことを悔いた。これまで時子と部屋で、一対一で話すようなことはなかったのに、突然呼んだりするなんて、じぶんでもその軽率さにあきれた。いっぱし、年長者として、花香のことがほっておけずに、なんとかしてやりたい気持ちからついでたのだが、彼女が部屋にきたら、いったいなにをはなせばいいのか、はやくも途方にくれてしまった。第一、彼女がここにくるかどうか。家がひろいため、一日じゅう顔をあわすことなくすごすこともめずらしくない。食事と入浴の準備ができたことをしらせるのも、子供たちだったし、彼女のほうも義理の父親との接触はなるべく避けているふしがうかがえた。慎二じしん、入浴はともかく食事のほうは、じぶんの部屋にもってきてひとりで食べたいとおもうほどだった。
「失礼します」
 時子が部屋のまえに立ったのは、紀香がでていってから十分ほどたってからのことだった。
 時子はエプロン姿で、濡れた手をそのエプロンの裾でふいた部分が、黒ずんだ皺となってのこっている。
「いそがしかったんじゃないのかな」
「一段落つきましたから」
 それは嘘ではなさそうだった。彼女の態度には、余裕がうかがえた。
「どうぞ、はいって」
 慎二は彼女を、客がきたらすすめる一人用ソファにうながした。そこに座るのがはじめての彼女は、どこかいそいそとした様子で着席した。
 さいしょからすわっている慎二の椅子とは、ハの字型にならんでいるので、まともに顔をあわす気遣いはなかった。
「なにか飲み物でもお持ちしましょうか」
 彼がことわるよりもはやく、時子はたちあがっていた。
 ふたたびあらわれた彼女はぼんに、ブランディーいりの紅茶をのせてきた。それは慎二の好みの飲み物だった。
 いつのまにかエプロンははずしていて、夏物の明るいブルーのワンピース姿でテーブルにティーカップを置く彼女のしぐさを、みるともなく慎二はながめていた。こうしてまぢかでみるのは久しくないことだった。雄三の留守中、彼女のプライベートにはあまり触れないようにしている彼だった。その薄い生地をとおしてうかぶ、体の線には無駄がなく、三人の子供を産んだとはとてもおもえなかった。いまはやりのダイエット体操のジムにでも通っているのか、聞こうにもとっかかりがつかめないまま、ブランデーの香がたちのぼる紅茶にとりあえずは口をつけた。
「うまい」
 おもわず本音がでてしまい、時子をみると、口をすぼめるようにして笑っていた。
「ちかごろ、子供たちの様子にかわりはないですか」
 話というのがそのこととわかって、時子から肩の力がぬけるのが、ありありとみてとれた。なにかほかのことでも考えていたのだろうか。
「子育ては、大変ですわ」
 同じ子育て中の女性なら、それはごくなんでもないセリフだったことだろう。が時子の口からそんな言葉がとびだすなど、まったく意想外だった。知る限り、これまで彼女が弱音を吐くところを慎二はみたことがなかった。すくなくとも、夫のまえではなおさら、彼女は気丈な態度を崩さなかった。義父をまえにして、つい気持ちがゆるんだのだろうか。これまで息子夫婦のことにはいっさい口をはさんだことはなく、いつも穏やかな父をよそおってきた彼だった。
彼女のほうから、すすんで心をひらいてくれるなら、こちらも忌憚なくものがいえるというものだ。
「時子さんを呼んだのは、花香のことなんだけどね」
「花香がどうかしたのですか」
 表情を変えずに時子はききかえした。
「あの子とのあいだは、うまくいってるのかな」
「いっているつもりですけど……」
「紀香や磯香にくらべ、あの子だけに辛くあたっているようなことはないだろうか」
「それぞれ個性がありますから、みんなおなじようにとはいきませんわ」
「それはそうだろう。でもね、あの子、ぼくに――」
「なんですの。はっきりおっしゃってください」
「子供がこんなこというのは、尋常とはおもえないんだが……、そのう、人を殺したい、といったんだよ」
「あの子が、そんなことを……」
 このとき時子がみせた、どこか遠くをみるようなまなざしの意味を、慎二ははかりかねた。
「じつはわたしも、あの子のとしごろに、おなじことをおもったことがあります」
「へえ」
 彼女がとりみだすこともなく、おちつきはらっている理由がそこにあることがわかると慎二は、いたずらに狼狽しているじぶんの底の浅さがはずかしくなった。
「おもうことと、実行することはべつですわ」
「なるほど」
 自信をみせる時子だったが、やはり気がかりそうに、
「ところであの子、だれを殺したいといったのですか」
「だれとはいってなかったよ」
「きっと、わたしだとおもわれたのでしょう。それで、およびになったのですね」
「いや、そんなことは――」
 時子はきれいな歯をのぞかせて笑いだした。
 慎二もまた、急に気持ちが軽くなったようで、彼女につられて笑った。
「飲みたい気分だな」
 なにげなくいったつもりが、さっとたちあがって時子は部屋からでていくと、まもなくグラスとグラスのふれあう音をひびかせながらもどってきた。べつの手に、これまた慎二の好きなワインの壜がにぎられていた。
 
 慎二はそれからも、花香のふるまいにはつねに、注意をむけることを忘れないようにしていた。時子とのやりとりがあってからは、過大な心配を抱くことはしなくなったがそれでも、ほかの姉妹たちとはちがう資質をもった彼女のことは、祖父としていつもみまもってやりたかった。
 彼は、花香と過ごす時間を、それまでにもまして、多くとるようになった。自分の力で、彼女の心に巣くう魔物を、なんとか取り除いてやりたかった。花香は、時子の気持ちしだいで、かわることができることを、確信するようになってからは、時子ともまたこれまで以上の接触をもつようにしていた。
 時子にもその義父の孫をおもいやる心情は伝わったとみえ、慎二によばれるといやな顔ひとつみせることなくやってきた。そのうち、じぶんからすすんでくるようになり、花香をなんとかしてやりたいという気持はふたりのなかでひましにつよまっていった。
 その日庭から、子供たちのあそぶ声がきこえてきた。そのなかに愛犬とふざける花香の姿をみた慎二は、いいようのない安堵に似た気持ちをおぼえた。
 そういえば、あれほどよく慎二にあいにきていた彼女が、最近はとんとこなくなっていた。彼女じしん、もう彼に悩みをうちあける必要がなくなったからだと慎二はうけとめた。こころみに家のなかから彼女を呼んでも、あそびに夢中になっている彼女にはきこえないのか、こちらをふりむくこともなかった。
 そんな花香が、おもいだしたように慎二の部屋にやってきたのは、酷暑だった夏もようやくすぎさり、秋を告げる風が開け放った窓から心地よくふきこんでくるころのことだった。
 いつまでも襖の敷居をまたごうとしないでたちつくしている花香をけげんそうに慎二はみやった。
「母さんは、いないよ」
 花香と時子のあいだにはもう、何の軋轢もないことをみこしてのいまの軽口だったが、一瞬彼女の顔色がかわるのをみて慎二はおもわずはっとなった。あるいは水面下ではまだ、根強く親子のたたかいがつづいているのだろうか。時子からきいた話では、以前のような反抗的な態度はみせなくなり、紀香や磯子とおなじようにふるまっているということだった。時子もまた、確かに以前は厳しい態度をとったことをみとめるものの、慎二からいわれてからは、つとめて優しくふるまうようになっていて、時に感情的になることはあっても、けっしてそれを面にだすようなことはないと言葉をつよめた。
 子供心は敏感だ。よそおいきれない母親の内面を花香は、するどく五感で感じ取っているのかもしれない。あるいはこれまで花香がうけた数々の折檻は、そんなことぐらいではおぎないきれないぐらい彼女の根幹にするどいとげをのこしていることも考えられた。
 日にち薬というたとえもある。ここは気長にかまえて、花香の心から暗い影がそのうち消え去るまで、じっくりまつほかないように慎二にはおもえた。
 慎二は、花香の頭をなでてやろうとして、腕をのばした。が、その手を避けるように、一歩彼女は後退した。
「どうしたんだい」
 当惑しながらも彼は、椅子から身をのばして花香を抱きしめようとした。
 その彼を彼女は、腕をのばしてはねつけた。
 慎二は困惑した。花香がなぜそんな行動にでたのか、皆目見当がつかなかった。これまで彼女の側にたって、彼女のためをおもい、時子との不仲を改善せんものと、彼なりに骨を折ってきたつもりだった。花香にもその気持ちはつたわっているものとおもっていた。さいきんの花香の、姉妹たちと楽しげにまじわる様子にも、その効果はてきめんにあらわれているようにみえた。
 なのに、いったいどうしたというのだ。
「あたし、おじいちゃんが、大好きだったの」
 おもいもよらない花香の言葉に、慎二はふいをうたれた。
 その瞬間彼の記憶のなかで、廊下からつたわってくるタタタッという足音がよみがえった。
 それがきこえたのは、あのときのことだった……。
 じぶんの体の下で忘我の状態にある時子はなにも気づいていないもようだったが、彼にはそれは、ききなれた響きにほかならなかった。じぶんの胸のなかにとびこんで、おもいきり抱いてもらいたくて、夢中でかけつけてくる花香……。
 慎二がみじろぎするのをゆるすまいとするように時子が、下からぎゅっと抱きついてきた。それはまるで彼女が、娘にじぶんをとられまいとしているように彼には感じられた。
 時子のとろけた肉体に、慎二はあっけなくまきこまれてしまった。廊下の足音がたちどまり、その直後に、襖が敷居を滑る擦過音がつづいた。そしてなにもかもが凍り付くような気配がそのあとを支配した。
 それからあとのことは、慎二はなにもおぼえていなかった。一本のワインからはじまった時子と彼との、魔力にみちた恋の泥沼にふたり、ずぶずぶとしずみこんでゆく快楽のほかには……。
 すぐ慎二は我にかえると、じっとこちらをみている花香に、よわよわしくかすれる声でといかけた。
「いまは、どうなんだい」
 

 時子はキッチンのあと片づけをしているとき、包丁が一本、みあたらないのに気がついた。どこかに置き忘れたのかしら。
 それ以上彼女はさがすこともせずに自室にもどると、手早くエプロンをはずして、着替えにとりかかった。
 これから慎二のところにいくとおもっただけで、胸がときめいた。じぶんがとんでもないことをしているという意識は心の片隅にあった。海外にでている主人の雄三の顔が恐ろしいものにおもえたが、そんなことを度返ししてまでしゃにむに彼をもとめるこの体は、もはやじぶんのものではないなにかのようだった。
 慎二の話に出た、花香が殺したいといった相手は、まちがいなくじぶんだという確信が彼女にはあった。あの子の恨みは、私の彼女にたいする憎しみの反映にほかならない。殺意を抱いたのは、むしろ私のほうがさきなのだ。
 花香を殺したいとおもったのは、いつのころだろう。他の二人の姉妹にはけっしてそんな気持ちにはならないのに、花香をみていると、本気でこの世から抹殺したい衝動につよくかられた。慎二と関係を結ぶようになってから、その話をすると彼に、それはきみの花香に対する嫉妬心のあらわれだといみじくも指摘された。そうかもしれない。あの子がやがてじぶん以上の美貌をもつことをおもうと、すさまじい妬みが毒となって全身を糜爛していくように感じられた。年齢というどうしようもない重圧におしひしがれるじぶん。その同じだけの年月が花香にさらにいっそう磨きをかける研磨剤の役割をはたすのだ。
 慎二はいった。いつか答はでると。子供のころ、だれかを殺したいとおもったきみが、いまここに母として生きているのもひとつの答だ。彼からそれをきいたとき彼女は、なにかしら救われたような気持ちになった。我々がおもうほどには、事態は深刻ではないのかもしれない。確かに答は、いつか必ずでるだろう。花香が平凡な母親になるという答だって、じゅうぶんありえるのだ。
 その答えがでるまでは、どうであれ、じぶんたちにあてがわれた役割を、ただいちずに生きるほかすべはない。
 いまのじぶんには、慎二がすべてだった。時子はそうじぶんにいいきかせると、身ごしらえもそこそこに、自分の部屋からでた。
 いちばんはずれにある慎二の部屋まで、ながい廊下をゆっくりあるきはじめた彼女の足取りは、無意識のうちにだんだんはやくなっていった。
 そのとき彼女は、廊下の壁に反響するじぶんがたてる足音を耳にした。いつもはそんなことにかまうことはないのに、きょうにかぎっていやに耳についた。そしてこのとき彼女のなかにも、あのときの慎二がきいた、タタタッという小刻みにひびく足音がよみがえったのだった。
 あれは、花香の足音だったんだ……。
 しかしそれ以上の詮索をすることもなく彼女は、はやる心にかられながら、開いたままの慎二の部屋のまえまでやってきた。
 花香が、こちらをふりかえった。その手に、みあたらなかった包丁がにぎられている。そしてその刃先が血にまみれて真っ赤になっているのがわかった。
 花香の向こう側に、自分のソファの上に、肘置きのうえに片足をのせ、両腕をかけっこのときのようにふりあげたまま、じっとうごかずにいる慎二がいた。脇腹の部分がみるみる鮮血にそまっていくことさえなければ、どこか滑稽な恰好におもわれた。
 時子は、目の当たりにつきつけられた答にただ、なすすべもなくみいっていた。


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このストーリーに関するコメント

19/02/03 木野 道々草

遅ればせながら、拝読いたしました。読み応えがあって、物語に引き込まれました。花香が「あたし人を殺したくなったの」と言った真意について、慎二が推理するの読みながら、孫を思う祖父の優しさを感じていたのですが、それがまさかの結末で、全く予想できないことでした。この結末が、花香の「あたし人を殺したくなったの」に対する慎二の「誰を?」の「答」なら、皮肉な結末というのでしょうか……気の毒にも思いました。色男はつらいよ、という言葉が思い浮かびました。また、「誰を?」に対する「答」が与えられた後、読者の私は「なぜ?」と花香の動機についても問わずにはいられませんでした。作中に書かれている手がかりをもとに考えてみました。読後も、読み手に推理できる余地があって、とても楽しかったです。(長々と失礼いたしました)

19/02/04 W・アーム・スープレックス

ご丁寧な感想をありがとうございました。
一万字少々のスペースとなると、少しは突っ込みもできるので、ある程度の展開はまえもって考えていても、いろいろ枝葉がでてくる面白さはありました。おもってもみなかった人物が犯人というミステリーの定義がありますが、そういうことはあまり考えずに書くのが私の定義です。木野道々草さんのコメントから、自分ではわからなかった自作のできぐあいを知ることができ、感謝しています。

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