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待井小雨さん

待井久仁子というペンネームで「小説&まんが投稿屋」というサイトで、童話やホラーやよくわからない物語を投稿しています。 ご興味を持っていただけたら、よろしくお願い致します。

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滲み出る

18/12/23 コンテスト(テーマ):第163回 時空モノガタリ文学賞 【 504号室 】 コメント:4件 待井小雨 閲覧数:227

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 母は体調を崩すと体臭にあらわれた。胃を悪くするのか匂いを発して寝込む。心を弱らせやすい人で、体の方がそれに影響を受けるのだ。
 ――お父さんに棄てられたらどうしよう。
 不安げな母の言葉を、匂いと同じく疎ましく感じていた。親類のない母は必死に父にしがみ付いて生きていた。
 
 私が就職を機に家を出たのは数ヶ月前。もう今更不安もないだろうと考えてのことだ。だが、それが安易な考えであったことを知る。
 父が体を壊した母を家から追い出したのだ。
 急いで帰省し家族で暮らしていたマンションの一室に入るなり怒った私に、父は慌てるでもなく言った。
 だって、臭いんだよ――と。
「それだけのことで!?」
「同じ建物の中だ」
 追いやったのは504号室――この部屋から一番遠い部屋だという。
 母に対して薄情だというのは昔から感じていた。懸命にすがる姿を冷めた目で見る人だったから。
 父を強く睨んで部屋を出る。エレベーターは漏水のため故障していた。勢いよく五階まで駆け上った。
 504号室の玄関の外には水たまりが出来ていた。ここも漏水? と思いながら呼び鈴を押す。
『……はい』
 くぐもった声だった。
「お母さん、私。開けてくれる?」
 まずは母の看病だ。よほど体調が悪いに違いない。だって、
(こんなに酷い匂いがしてる)
 そう思ってから、その考え方の異様さに初めて気づいた。扉を隔てた場所にまで匂いがするのは奇妙だ。ごみや汗の匂いでもない「具合の悪い母の匂い」としか呼べない臭気が、きつく漂ってきていた。
 ――だって、臭いんだよ。
 みんな耐えかねてしまったのだと父は言っていた。隣室もその隣も、四階もその下もみんな厭な匂いがする、と出て行ってしまったと。見れば、隣室の戸の前にもとろりとした水溜りが出来ていた。
『開けられない』
「えっ……?」
『こんな姿、見せられない』
 辛そうな声音だった。ずるり、と重くぬめった音をたてて母が扉から離れていくのを感じた。

 本当に気付いてなかったのか――と父は言った。
「あいつには身寄りがない。それは、人として生まれてこなかったからだ」
 草臥れきった顔だった。
「川の底か沼の近くか……もう憶えていない。いつの間にかあいつは俺の人生に滑り込んで妻になっていた」
 一瞬の光景だけが脳裏に蘇るのだという。泥の中に手を伸べる自分と、その手を取る何かの姿。それは全身に泥を纏って腐臭を放っていた。
「お母さんが人ではないなんて……そんなことを言うつもり?」
 何を言うの。ばかばかしい。……何を言うの。
「弱ると形を保てずに崩れるんだ。ぐずぐずとしたそれがあいつのいた泥の匂いのようで」
 とても不快なんだ、と壁に染みを作る水を睨む。……あれはきっと、水ではない。
「それでも一緒に暮らしてきたじゃない」
「お前がいたからだ」
 父ははっきりと言う。
「お前のことは可愛いよ。だって俺の子だもの。どんなものから生まれてきたとしても、お前には俺の血が流れてる。だけどあいつを家族だとはどうしても思えない。だからもういいじゃないか」
 父だけを頼りに地上に這い出した母は、捨てられないよう顔色を窺ってひたひたと張り付く。その母を捨てる機会を父はずっと求めていた。
「お前が出て行ったから」
 もう夫婦として生きなくてもいいじゃないかと思った。
「お前が出て行ったから」
 娘がいることで安堵を得ていた母は不安に苛まれ追い詰められた。もう臭気を身の内に隠すことも出来ないほどに形は崩れてしまっている。
 ……ああ、あの日。
(お母さんの匂い)
 そう思った昔の自分。腐った魚がドブ川に沈むのをランドセルを背負って見ていた。生き物の溶けた泥の饐えた臭気。それが今、一番遠いはずのあの部屋から。
「もう、この部屋にまで匂いが」
 嫌、と声がした。504号室にいるはずの母の声だ。
 ――私を見ないで。離れないで家族でいて。
 どこから聞こえてくるかも分からぬ声に、父は動じることもない。
「見るべき姿すら保ててないくせに」
 ――ちゃんと、戻るから。
「俺はお前を妻だと思いたくはない」
 ……いや。
 不安を念入りに植え付け傷つける父。それでも私を振り返る顔は娘を慈しむ親の表情だ。
「こいつの後始末は俺がつける。お前は帰るんだ」
(いや……)
 ――世界が揺らぐ。人でなかった母と人でなしの父。
 であれば私は何なのだ。
 強い不安に襲われる。恐怖に絞られて苦しくなる。息を吸った。吸い込めるだけ吸い込むと、体が膨張したような感覚を覚えた。
「……嫌だよ、ねぇ」
 縋る声は私のもの。手を伸ばすと父が顔を引きつらせた。身の内の澱みが恐怖に絡め取られて引きずり出される。
 ああ、と息を吐いた。

 その息は疎ましくも身に馴染む、汚泥のような異臭を放っていた。


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このストーリーに関するコメント

18/12/26 霜月 秋旻

待井小雨さま、拝読しました。
まさかの娘さんも…というオチですか?
嫌われるのを恐れて本来の自分を出せずに生きている人は世の中にいっぱいいるでしょうね。嫌な部分含めて自分の全てを愛してくれる人と出会えればいいのでしょうけど。それにしても奇妙なお話でした。

18/12/27 待井小雨

霜月秋介様

お読みいただきありがとうございます。
不安によって滲み出た、人ではない母親の本来の姿と、父親の薄情な本性。それを目の当たりにしてこれまでにないほどの不安に襲われ、娘の本来の姿も滲み出る……といった感じです。たぶん。
自分でもよく分かっていないのが本当のところです(^^;
こうして目の前にさらけ出された醜い本性までをも愛してくれる存在に出会えていたら幸せだったのでしょう。この家族は、それを受け止めきれなかったのだと思います。

19/01/03 イト=サム・キニー

拝読しました。
面白かったです。それぞれが「拒絶」という一方的な立場にあるようでいて、妻や娘を放逐しきれない父も、夫と娘を強力に絡めとる母も、家族の枠を力ずくにでも保とうとする娘も、相互依存関係にあるところに読み応えを感じました。
『心を弱らせやすい人で、体の方がそれに影響を受けるのだ』と冒頭で主人公が断言していた背景にも、母から言い聞かされたり、父の誤魔化しだったり、己の思い込みのようなものが形作られる歪な家族関係があったのだろうと想像すると、ぞっとします。
読ませていただいてありがとうございました。

19/01/05 待井小雨

井渡月ヅキシ様

感想をいただき、誠にありがとうございます。
歪で不安定な家族の話で、ご気分を害される方もいるのでは……と不安に思っていましたので、面白いと言っていただき本当に嬉しいです。
母は捨てられたくないから真実を隠し、父は言わなくてもいいと多くを語らず、娘は違和感を無視して勘違いをする――そういった家族の成れの果て。そんな歪な家庭を「ぞっとする」と感じていただけて良かったです(良かったというのも変ですが 汗)。

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