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浮舟

18/11/19 コンテスト(テーマ):第162回 時空モノガタリ文学賞 【 あだ名 】 コメント:0件 青苔 閲覧数:159

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 私は昔、浮舟と呼ばれていた。

 本当の名前は知らない。
 いつからか私はここにいて、私のそばには姉さんがいた。
 姉さんは時々私に昔のことを話してくれる。あんたはこの遊郭の大門の前に捨てられていたのだ、そして私が面倒を見ることになったのだ、と。
 遊郭の中の子供にはたくさんの雑用があったけれども、その合間には子供同士でよく遊んでいた。でも私は、いつからかその遊びに誘われなくなった。私は、うまくやれなかったようだ。笑わなかったのがいけなかったのかもしれない。私は、笑い方を知らなかった。
 笑い方を知らないのは不便なことだった。大人たちに、おまえは可愛げがないとよく折檻されたのは、きっと笑い方を知らなかったせいだ。姉さんに教えてもらおうと思ったけれど、人は楽しいと思った時に笑うのだ、と言うばかりでよく分からない。
 遊郭は、太陽が沈むと途端ににぎやかになる。
 お客さんがたくさんやって来て、遊女たちは綺麗な着物を着てお店に出る。私はこっそり、窓の隙間から表の通りをよく眺めたものだった。夜の闇の中、たくさんの提灯の明かりに照らされて、たくさんの人間がうごめくさまは、とても不思議な光景だった。
 その時間になると、もう表を走りまわる子供の姿はない。私のように部屋でじっとしているか、少し大きな子供だと店で配膳の手伝いをしている。廊下では足早に行き交う大人たちの足音がする。
 姉さんは他の遊女たちとは違って、自分の部屋でお客さんが来るのを待っている。姉さんを買うためのお金は高い。姉さんは、特別なのだ。それが私には誇らしかった。
 その日の姉さんは、一等綺麗な着物を着ていた。艶々した赤い生地に大輪の花が咲いていて、金色でたくさんの縫い取りがしてあった。大切なお客さんが来るのだと、姉さんは言っていた。
 だから私は、廊下の足音がやんだ隙を見計らって、部屋の外へ出た。姉さんの仕事部屋へ行こうと思ったのだ。夜に部屋から出ることも、姉さんの所へ行くことも禁じられていたけれど、少しも構わなかった。もう一度、あの綺麗な着物を着た姉さんを観たかった。
 私は気配を消すのがうまかったし、部屋の配置も良く知っていた。誰にも見とがめられずに姉さんの部屋へ行くのは簡単なことだった。
 ただ、夜更けの遊郭は怖い所だった。どこからか、動物の唸り声が聞こえるのだ。それはどこかで飼っている家畜の鳴き声だったかもしれないし、夜になると現れる幽霊のうめき声だったかもしれない。いずれにしてもそれは、とても恐ろしい声だった。でも、もうすぐ姉さんの姿が観られると思うと、そんな怖さもどこかへ吹き飛んでしまった。
 そして私は姉さんの部屋の前までやって来た。
 障子からかすかな光が漏れ、中に人の気配がする。きっと姉さんとお客さんだ。私は音をたてないようにそっと障子を開ける。ほんの少しだけ。中の二人は気付かない。私はその少しの隙間から中を覗く。姉さんの赤い着物の裾が見える。行燈の明かりに照らされて、それは美しい光沢を放っていた。
 もう少しよく観ようと視線をずらしてゆくと、そこには姉さんとお客さんがいた。いや、そこに二人がいることを私は初めから知っていた。そして知っていた通りにそこに二人がいただけだ。
 でも、そこにいた二人はとてもおぞましくうごめいていた。あんなに綺麗な着物に身を包んでいながら、その姿のなんと醜いことか。
 私は驚き、障子を元に戻すのも忘れて、急いでその場を立ち去った。
 私の体は小刻みに震えていた。遊郭という場所の恐ろしさを今初めて知る思いだった。
 そして私は震えながら、姉さんが語ってくれた言葉を唐突に思い出していた。

 橘の 小島の色は 変はらじを この浮舟ぞ ゆくへ知られぬ

 私の名前、浮舟、の由来だと言っていた。本当の名前は知らないから、この遊郭であんたは浮舟なのだ、と。
 私は、どこへ行くかも分からない小さな舟だ。私はこの遊郭で育ち、流れに逆らえぬまま、醜くなってゆくのだ。ここは、綺麗で、汚い。
 どうやって戻って来たのか、私は元いた部屋の真ん中に座り込んでいた。どれくらいの時間がたったのかも分からない。部屋は消えかけた淡い行燈の明かりで、薄ぼんやりと照らされていた。私は行燈の覆いを取って、揺れる炎を見た。それは姉さんの着物のように赤かった。
 私は立ち上がり、行燈を倒した。小さな炎は畳に燃え移り、大きくなった。そして急いで引き出しからマッチ箱を取って部屋を出た。この部屋だけではいけない。この遊郭すべてを燃やさなければ。姉さんの着物のように綺麗な赤い炎で包んでしまわなければ。
 汚いこの場所も、醜い私も、燃やしてしまわなければ。
 私は火を点けながら、笑っていた。これが楽しいということなのかと初めて知った。

 そして私は、浮舟という名前を捨てた。


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