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吉岡幸一さん

性別 男性
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くっつき虫

18/11/16 コンテスト(テーマ):第162回 時空モノガタリ文学賞 【 あだ名 】 コメント:0件 吉岡幸一 閲覧数:233

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「おい、くっつき虫じゃないか。こんなところで会うなんて、いままでどこに隠れていたんだ」
 男に呼び止められた女はビルの出口に立ち止まった。逃げ場を探すように辺りを見渡したが、すぐに視線をまっすぐに男に向けた。
 風がつよい日で銀杏の木からは黄色い葉が舞い落ちていた。踏み潰されたぎんなんの尖った臭いが鼻を刺すようで、道行く仕事帰りの会社員たちは足もとに気をつけながら歩いている。
 まだ午後六時前だったが、日の暮れるのは早く、先の先までつづくどの車もヘッドライトをつけはじめていた。
「くっつき虫って呼ばないで。もうあなたの婚約者じゃないんだから」
 女は眉をしかめながら持っていた鞄をきつく握りしめた。
「冷たいな、半年ぶりに会ったというのに。まだ浮気したことを怒っているのか。もう相手とは別れたし、くっつき虫のことが一番だってわかったんだ」
「まさかずっと私のことを探していたんじゃないでしょうね」
「いきなり引っ越し先も告げずに出ていっただろう。会社も辞めていたし、お母さんに聞いても教えてくれないし、探したくても探しようがなかったんだ。だからこれは偶然だよ、ほんと偶然」
「そう、わかった。それじゃ、お元気で」
 女は背中をむけると歩き出そうとした。慌てて男は女の袖をつかんで引き止めた。
「ずっと謝りたかったんだ。悪かった。俺が悪かった。本当にごめん。また前のような関係に戻らないか」
 捲したてるように男は言うと、強引に女を引き寄せて抱きしめた。
「やめて、大声をだすわよ」
「また俺のくっつき虫になってくれよ」
 男はすぐに女を離した。目からは大粒の涙を流しながら唇を震わせていた。
 女にくっつき虫というあだ名がつけられたのは、付き合っていた頃、いつも男にくっついていたからだった。常に手をにぎり、腕をつかみ、外に出るときはもちろん家のなかのトイレに行くときですら、男にくっついてきて離れることがなかったからだ。女は仕事に行くときは泣きながら体を離したが、仕事から帰ってくるなり、またすぐにくっついてきたものだ。
「どうか他をあたってください。私はもうあなたのくっつき虫には戻れませんから」
 女の声は秋の風のように乾いていた。
「魔が差したんだ。浮気したのはつい出来心なんだ。本気じゃないんだ」
「ずいぶんと芝居が下手になってしまったのね。もう嘘の涙なんかに騙されないから」
 女は首を横に振ると、鞄の中から封筒を取りだしてみせた。
 男は顔を近づけて封筒の下に印刷されてある文字を読んだ。
「結婚相談所って書いてあるな」
「ええ、新しい出会いを探しているところよ。この封筒には身上書が入っているの。来週はこの方とお会いするつもり」
「俺を裏切るのか」
 女はため息をついた。「裏切ったのはどちらかしら」
 黄色い銀杏の葉が男の擦れたスーツの肩に乗っかっていた。男の近くを人が通る度に銀杏の葉は揺れていたが、肩から落ちることはなかった。
 ビルの一階にはスポーツジムがあって、ランニングマシーンに乗って走っている人の姿がみえた。専用の出入口からは大きなスポーツバックを抱えた会社員や若い女が出入りしている姿がみられる。ガラス窓の奥は外が暗くなるほど明るさを増していた。
「あら、こんなところで何しているのよ」
 スポーツジムから出てきた赤毛の女が親しそうに男のそばに走ってきた。運動した後だろうか頬が薄らと赤く染まっている。
「早かったな。迎えにきたんだよ。このあと一緒に食事でもと思ってね」
 男はバツの悪そうな笑顔で答えた。
「で、こちらの方とはどういう関係なの」
「取引先のひとで、偶然ここで出会ったものだから挨拶をしていたんだ」
 赤毛の女は安心したように頷くと、女に向かって丁寧に頭をさげた。
「夫がお世話になっています」
「まだ結婚してないだろう」
「あら、春になったら結婚するでしょう。その予行練習よ」
 赤毛の女は勢いよく男の腕にしがみついた。
「くっつき虫ですね」
 女は吐き捨てるように言ったが、赤毛の女は気にもしていないように微笑んだ。
「いいえ、くっつきちゃんですよ。彼からはくっつきちゃんっていうあだ名をつけられているんです」
「お幸せそうでなによりです」
「結婚式にはご招待させてくださいね」
 男は苦笑いしながら頭を掻いていたが、「じゃ」と声をあげると、しがみつく女を引きずるようにしていきなり駆けだした。
 すぐに人混みにまぎれ姿が見えなくなった。
 女は結婚相談所の封筒を鞄にしまうと、もし本当に結婚式に呼ばれたら芳名帳には「くっつき虫」と書こうと思いながら、男が逃げた方とは反対の方角に歩いていった。
 黄色い銀杏の葉がいつの間にか女の肩にも乗っていた。ゆらり、揺れながら葉は落ちることがなかった。


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