1. トップページ
  2. いのち

たまさん

こんにちは。ごくフツーのおじさんです♪

性別 男性
将来の夢 たぶんもう遅い。それとも、すでに到達したか?
座右の銘 晴耕雨読

投稿済みの作品

0

いのち

18/11/12 コンテスト(テーマ):第162回 時空モノガタリ文学賞 【 あだ名 】 コメント:0件 たま 閲覧数:317

この作品を評価する

 90年も生きると名前なんていらないと思うことがある。

 私が暮らしている介護施設は全室個室で、80名ほどの入居者がいるが、食事時に廊下や食堂で顔を合わす程度だから、名前なんて覚える必要もなかった。というか、入居者のほとんどは痴呆症とかで、挨拶もろくに出来ないから、名前を覚えてどうのこうのという付き合いは、ほとんど出来なかったのだ。
 でも、名前のない付き合いは、もうひとつ気分が晴れない。いよいよ死期が近づいた年寄りばかりの集団生活のなかに居るのだと、つい自覚してしまうからだ。それで、私はあることをして晴れない気分を晴らすことにしていた。入居者全員にあだ名をつけて、口には出さずとも、こころのなかで声をかけるのだ。
 例えば、作家村上春樹のそっくりさんには「おはよう、ハルキさん……」とか、ニュースキャスター鈴木菜穂子のそっくりさんには「おや、ナホコさん、お元気ですか?」とか。でもナホコさんは86才だから「どこが似てるの?」と訊かれても、私は答えようがないが、若いころは美人だったはず。つまり、私の好みということだ。
 それで入居者のほとんどにあだ名をつけたが、私もこの歳だからときどき思い出せないことがある。そんなときは「あら、名無しさん、ご無沙汰です」と呟いて誤魔化すことにしていた。

 月の明るい夜だった。ベッドに横たわってぼんやりしているとだれかがドアをノックした。こんな夜更けにまた痴呆症の入居者が徘徊しているのだろう。ドアの鍵はロックしてあるが、十円玉一枚あればだれでも開けることができる。といっても、痴呆の入居者には無理な話しで、いつものように無視していたら、鍵をこじる音もなくドアが開いた。
 背のひくい小太りの男が廊下に立っていた。黒いスーツに、黒い帽子と、黒い手提げ鞄……「わっ、喪黒福造だ!」一瞬、私はそう思った。喪黒福造は漫画「笑うせーるすまん」の主人公だった。
「こんばんは。シンジさん……」男は丁寧にお辞儀をしてスコスコと部屋に入ってきた。シンジは私の名前だった。たぶん、この男は悪質なセールスマンに違いないと思った。
「アンタ、だれや?」私はベッドに胡座をかいて身構える。
「はい。お休みのところ申し訳ありません。じつはワタシはあなたの名付け親でございまして、今夜お伺いしたのは、ぼちぼち、あなたのお名前を返して頂こうと思いまして」
「名付け親?アンタが?」
「はい。そうです」
「アンタなあ、そんな見え透いた嘘ゆうて私をだます気かいな。シンジはなあ、親父にもらった名前やで」
「はい。たしかにそうでございますけど、シンジはあだ名でして、ワタシが返して欲しいのは、あなたの本名でございます」
「なんやて?私の本名?そんなのシンジに決まってるやろが……」
「ですから、それはあなたのお父様が名付けたあだ名でして、ワタシが名付けたのは本名の方でございます」
 さっぱりわけが分からなかった。この男もやはり痴呆症なのかもしれなかった。
「ほな、訊くけどな、私の本名はなんやねん?」
「はい。シンジさんのお名前は、いのちでございます」
「いのち?」たしかに男はそういった。

「この世に生きとし生けるものの本名は、すべていのちです。シンジも、ナホコも、親がつけたあだ名にすぎませんし、犬や、猫の名前も、飼い主が勝手につけたあだ名でございます。それでね、シンジさん……」
 男はそこで一呼吸置いた。
「あなたはもう十分生きましたから、ぼちぼち本名を返して欲しいのです」
 私は啞然としてしばらく声が出なかった。
「アンタ、ひょっとして神さんか?」
「ホーッホッホッホッ……それはございません。ワタシはただの営業マンでございます」
「営業マン?そんなもんにいのち返すのか?いやや!帰ってくれ!」
「はい。それはごもっともですが、いますぐに返せとは申しません。今夜はこの書類にサインをお願いしたくてお邪魔しました」 
 そういって男は手提げ鞄から薄っぺらな書類を取り出した。
「ちょっと待て、それにサインしたら私は死ぬんやろ?」 
「はい。そうでございます。なにかご不満でも?」
 そう問われると、なにひとつ不満なんて見つからない。思う存分に生きたというのだろうか。
「それで、それ、いつの話しや?」
「はい。書類の決裁が済むまで三ヶ月ほどかかりますが、年内には……」
 そういえば今夜は中秋の名月だった。
 男はベッドの脇に立ったまま動こうとはしない。私はもう観念するしかなかった。
「わかった……サインするわ」
「ありがとうございます。では、こちらに……あ、サインはあだ名でけっこうでございます……」
 サインなんて何年ぶりだろうか。
 もし、私が痴呆だったら名前なんて忘れて、もう少し長生きできたかもしれない……と思うと、ちょっぴり悔しさが残った。


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

ログイン