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文月めぐさん

第144回時空モノガタリ文学賞【事件】にて、入賞をいただきました!拙い文章ではありますがよろしくお願いします。コメントもできるだけ書いていこうと思います。Twitter→@FuDuKi_MeGu

性別 女性
将来の夢 作家
座右の銘 失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければ、それは成功になる。

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あだ名で呼んで

18/11/05 コンテスト(テーマ):第162回 時空モノガタリ文学賞 【 あだ名 】 コメント:1件 文月めぐ 閲覧数:162

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 いつものように「西本広樹様」というネームプレートを確認してカーテンの中をそっと覗き込みます。ベッドのそばにある折りたたみ式の椅子に腰かけると、夫は目を薄く開きました。あら、起こしちゃった、と思っているうちに完全に目を覚ましたようです。
「ああ、お母さん、来てたんだね」
 そう言って体を起こそうとするのを私は軽く補助しながら「今来たばかりですよ」と笑いかけました
「リンゴは持ってきてくれたかい?」
 夫は私が提げていた保冷バッグを見て、目を輝かせました。本当にこの人はリンゴが好きなのです。とはいっても病気の身ですからあまり多くは食べられません。残ったものは備え付けの冷蔵庫に入れておきます。
「もちろん持ってきましたよ」
 タッパーに詰めたリンゴを見せると、夫はうんうん、とうなずき、爪楊枝で一切れ口に入れました。「今日のリンゴもとてもおいしい」と顔をほころばせます。
 八十歳で癌が見つかってから、丸五年が経ちました。五年の間は入退院の繰り返しですが、私の前では決して弱音を吐きません。本当に強い人なのです。治療のせいで髪は抜け落ちてしまいましたが、「すっきりしたね」などと言って笑うのです。
 あとどれくらい、こうして会話ができるのでしょうか。できればずっと一緒にいたいものですね。

 電話の音が鳴り、受話器を持ち上げると、相手は夫が入院している病院の看護師さんでした。「すぐに来てほしい」と言われれば、畳んでいた洗濯物を投げ出して、病院へと向かいました。
 病室に駆けつけると、息子の大樹はすでに到着していて、私の顔を見るなり「母さん、どうしよう」と今にも泣きそうになっていました。その頼りない姿を見ると、私がしっかりしなければ、という気持ちになって、背筋がしゃん、と伸びました。そっと夫の様子をうかがうと、眠そうに目を開けたり閉じたりしています。看護師さんが言ったように、今日が夫にとって最後の日になりそうです。しかし、我々が弱気になってどうするのです。
「大樹、最後くらい笑顔を見せてあげなさい」
 私はそう言うと「お父さん」と優しく呼びかけました。その声が届いたのでしょうか、夫はこちらに目をやり、にっと歯を見せました。そして、口を開いて何かを伝えようとしています。
「なあに?」
 と言って耳を近づけると、わずかに「まりさん」と聞こえるのです。
 まりさん――昔、まだ大樹が生まれる前、夫は「真梨子」という私の名前からとったあだ名で呼んでくれていました。私の方も「広樹」という名前から夫のことを「ひろさん」と呼んでいました。しかし、子どもが生まれると目線を子どもに合わせてしまうものですね。だんだんと「お父さん」「お母さん」に変わってしまったのです。「まりさん」なんてとても久しぶりに呼ばれました。
「なあに、ひろさん」
 私は小さな声で呼びかけました。すると再び夫は歯を見せて笑うのです。とてもうれしそうに目を細めて笑うのです。
 しかし、それが最後でした。夫は次の瞬間にはすっと目を閉じ、瞼が再び持ち上げられることはありませんでした。
 お父さん……いえ、ひろさん。私もきっとそう遠くないうちにそちらへ参ります。その時は昔のようにお互いあだ名で呼びましょう。そして、昔話に花を咲かせましょう。ほんの少しの別れの間は悲しいけれど、いつも心の中で呼びかけていますね、「ひろさん」と。


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このストーリーに関するコメント

18/11/10 新世界

温かくて、切なくて、涙が出てしまいました。普段暗い話ばかり読み気味で、情緒も不安定な私ですが、優しさに触れて涙が流れたのも久し振りです。本当にありがとうございました。

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