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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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もう一度、呼んで

18/10/22 コンテスト(テーマ):第162回 時空モノガタリ文学賞 【 あだ名 】 コメント:2件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:140

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 磯子は壁に貼られた売却済の判がおされた売り家の間取り図をみて、満足そうにうなずくと、
「栄ちゃん、やったわね」
 担当者の栄坂のほうをねぎらうようにみた。ふだんめったにほめられることがないだけに彼は、周囲の社員の顔を、照れたようにみまわした。入社以来、彼があつかってはじめて売れた物件だった。
 不動産会社のオーナーをつとめる磯子は、男子社員にひけをとらない大柄の体格の持ち主で、長年不動産という少なくない金のからむ物件をあつかってきただけにどっしりとしたそのおちつきぶりには、悠揚とした貫禄さえ感じられた。
 最初は数人の社員でスタートしたこの会社も、いまでは二十名でもまだ足りないとおもえるほどの規模にまで拡張した。ちかい将来、現在の倍の社屋への移転も考えている。
「ちょっとでかけてくるわね」
 磯子がいうと、社員全員起立して、
「いってらっしゃいませ」
 声をそえて送り出した。
 磯子はガレージにとめてあった高級車にのると、エンジンをかけた。
 行く先は、そう遠くもないところにあるちょっとした料亭だった。
 一昨日の夜、彼女の自宅に電話があった。こちらのもしもしの声に、相手はしばらくの間をおいて、ためらいがちに、
「もしもし。磯子さん……」
 その小鼻にくぐもったような声音に、磯子はわけもなく不快感をおぼえた。
「どちらさまで」
 またしばらくの沈黙のあとに、小さく吐息をついてから、ふたたび相手は話しだした。
「いま、いいのかしら」
「あの、ご用件は――」
 また黙り込む相手に、いいかげんうんざりしながらも、磯子は辛抱強くまちつづけた。
「私です。素子です」
「もとこさん……どのもとこさんですか」
 今度ばかりはすぐ返事がかえってきた。
「あなたの母の」
「母は、あたしが小学生のときに、亡くなりましたが」
 相手は何かをいいかけた。が、電話の向こうからきこえてきたのはただ、
「……ごめんなさい、ごめんなさい」のくりかえしだった。
 磯子は相手にもっとあやまらせたかった。母は、彼女が小学校二年生のとき、家族を捨てて家をでていった。酒におぼれては母に暴力をふるっていた父は、それからというものいっそう酒浸りになったあげく、肝臓の病気をこじらせてはやばやと亡くなり、磯子は養護施設に預けられた。退所後は働きながら夜学に通い、不動産業の資格をとってからはそれこそ死に物狂いに働いた。その結果がいまなのだ。母が生きていて、遠方でくらしていることは、風の便りにきいていたが、彼女のなかではもはや、死んだものとしてあつかわれていた。
 その母から、突然の電話……。
 きっと生活に困って連絡をしてきたにちがいない。こちらがそれなりの成功をおさめたことをききしって、いまになって親子の縁にすがりつこうという魂胆にきまっている。
 若いころから人々のあいだで厳しくもまれて育ってきた磯子の思考は、そのようにしかはたらかなかった。
「元気にしていましたか」
 余計なお世話でしょうと、胸のなかでつぶやきながらも磯子は、
「ええ、まあなんとか」
 そのつぎにおとずれた沈黙は、自分の安否もきいてもらいたいという小賢しい腹づもりとうけとめた彼女はわざと、なにもきかなかった。
「あのう、忙しいとはおもうんだけど、あなたのあいている時間にでも一度、あってもらえないかしら」
 それには磯子は、はっきり口にだしてことわろうとした。何十年もほったらかしにしておいて、いまさらあいたなんて、あんまりむしがよすぎるんじゃないですかと、いうことさえなんだかばからしくおもえた。
「やっぱりむりみたいね、……イソちゃん」
 相手もここまできて、磯子のほうにまったく脈がないとみてか、これまでのようなはりつめた気持ちが薄らいだもようだった。
 母からイソちゃんと呼ばれるのは、本当に何十年ぶりのことだった。母だけがこの名で自分を呼んでいた。磯子のなかに、母と暮らしていた当時のおもいでが、たちまちあふれかえった。
「小福亭という料理屋さん、ご存知かしら。――電話番号いっておきます」
 磯子はゆっくりと電話番号を口にした。念をいれて二度、くりかえしてから電話を切った。
 いまその小福亭の瀟洒な店構えが道路の向こう側にみえてきた。
 約束の刻限は二時だった。まだあと十五分あった。小福亭のガレージにのりいれた車からおりた彼女は、玄関のある正面にむかった。
 入口の手前の、小福亭の看板のよこに身をよせるようにして、老いた女性がひとりたっていた。こちらをみるその顔に控えめな笑みがうかぶのをみた磯子もまた、ひとりでに表情がやわらぐのをおぼえた。
 もう一度、母からイソちゃんと呼んでもらいたい。それがいまの彼女の素直な気持ちだった。


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このストーリーに関するコメント

18/11/23 入戸月づきし

拝読しました。
面白かったです。たった一言が何十年かの時間を一気に飛び越えてしまう、という話筋は個人的にとても好きです。冒頭の社員への愛称での褒め言葉とも対比され、『死に物狂いに働い』てきた主人公もまた、誰かによく頑張ったと褒められたい気持ちがあるのかもしれません。『男子社員にひけをとらない大柄の体格の持ち主』という外見とのギャップもあって魅力的な作品でした。ありがとうございました。

18/11/26 W・アーム・スープレックス

ありがとうございます。
主人公の心情などをよくご理解いただき、こちらのほうが気づかされるおもいでした。TOTSUYAMAさんも書いておられるように、その一言で状況が一変することがありますが、それが作品の肝かなとも思ったりします。私自身はあまり、そういうことは考えずに、いきあたりばったりに書いていますが、ご意見をいただいて、ああそうだったのかとおもい、自作をまたみなおすきっかけにもなりました。

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