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花のか、ひとひら。

18/09/29 コンテスト(テーマ):第161回 時空モノガタリ文学賞 【 伝言 】 コメント:0件 新世界 閲覧数:138

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 始め、自分は意識のみがぽつりと浮かんでは消える泡沫の様な物であった。
 長い時をそうして過ごした気がする。そこには光も色も無かった。
 遠くで何か聞こえる。それは細い糸でも辿る様な微かなものだったが、ひたすらそれだけに意識を注ぐと、
ある時ハッキリと聞き取ることが出来た。
「母様、これは何の匂いなのです?」幼い声が尋ねると、
「これは金木犀の香りですよ、理彦さん」と慈愛に満ちた声が応えた。
 その時、うたた寝から起きる様にふと、私は目醒めた。

 視界が開けて初めて、色彩の有る世界を知った。眼下には長い緩やかな坂が見え、すぐ隣に所々錆付いた青銅の街燈が建っている。道添いには何件もの家が建ち、どうやらそこは人が住む為に設けられた区画である様だった。時たま、子ども達が小石を蹴りながら楽しそうに横切った。
「お早う。今日も良い香りだね」
 下の方から声が聞こえる。声の主は七歳の男の子で、名を理彦と言った。
「今日は学校で算術の試験があるのです。少し苦手ですが、頑張ってきます」
 僅か不安気な声色で、しかし明るい笑顔でいってきますと言うと、少年は坂を下って行った。通りを眺め、人々の話を聞きながら過ごす穏やかな日々に自分は満たされていた。そして理彦という存在は、殊更愛おしいと思った。

 ある日、枝の一つに小鳥が留まった。小さな嘴で花の中をつついている。チチチッと可愛らしい声で鳴くと、此処が気に入ったのか、羽の手入れを始めた。私は嬉しくなってその鳥に話しかけたが、届いていない様だった。それでも、小鳥は毎日私の所へ来たし、私も惜しみなく花の蜜を分け与えた。いつしか、二人は友となった。

 数年経ち、どうやら自分は毎年花を付ける秋頃になると目覚める様だと気付いた。一年経つと町は変わっている部分もあったが、小鳥は必ず私を訪れたし、何より少年が成長していく姿を見るのが嬉しかった。理彦は毎朝違う言葉で私の花や香りを褒めたので、私は葉がこそばゆかった。帰りには暖かな街燈の灯に照らされながら今日の出来事を話してくれた。小鳥はチチッと鳴きながら、枝に身を任せまどろんでいた。夢の様な幸福な日々が続き、そして辺りが寒くなる頃、私はまた眠りについた。

 ある年目覚めると、街の様子は一変していた。火事か、地震でもあったのだろうか。見渡す範囲の家は焼け落ち、電柱が痛々しく横たわっている。自分だけが奇跡的に残った様だった。不安な気持ちでいると遠くでチチッと声がして自分に留まった。
(よかった、お前は無事だったのね)
 それから数日、行き交う人々の声に耳を傾けながら少年を探した。皆暗い顔で通り過ぎるばかりであったが、ある時この様な会話を聞いた。
「須永の奥様、昨日亡くなられたそうよ」
「まあ、お気の毒に。あそこは旦那さんも戦死されたし、ご長男はどうしたのかしら?」
「理彦さんなら、長野の療養所に居るらしいわ。たしか結核だとか……」
 彼女等の会話から、一七歳となった理彦は病に侵され、遠く離れた場所で治療を受けているらしかった。それは不治の病だった。

 彼が死んでしまうかもしれない。そう思うと居ても立ってもいられなかったが、ここから動く事も出来ぬ自分にはどうする事も出来ない。私は初めてこの動かぬ根を、幹を、恨めしく思った。葉の一つ一つを呪った。彼が好きだと言ってくれた橙黄色の小花を、力の限り毟り取ってやりたいと思った。しかしどれ一つ叶わなかった。
 ふと、枝に留まる小鳥に気が付いた。そして頼んだ。
(ああ、どうか。この花の一片で構いません、彼に届けてはくれませんか)
 何度も必死に頼んだが、小鳥に金木犀の言葉は分からない。
(小鳥さん、どうかお願いです。小さな、花の一部でもよいのです。私の残りの命を全て貴方に差し上げますから、どうかこの花の一片をあの方に……)
 金木犀は泣きそうな気持で必死に願い続けた。そして小鳥は嘴を枝に二、三こすり付けると花の付いた枝を一折ちぎって飛び去った。

 焼け落ちた一帯を立て直すべく、人々は必至に働いた。家主の行方も分からぬという訳で、金木犀はバッサリと切られる事となった。毎年見事に咲いていたと嘆く声もあったが、仕方の無い事であった。奈落の底に居ても、必死で生きようとする人々は眩しく見えた。眠りにつくのと同じ様に、私は生涯を終えた。

 数年が経ち、奇跡的に回復した理彦が街に戻って来た。彼が生死の狭間を彷徨っていた時、遠のく意識の中で小鳥のさえずる声と、懐かしい金木犀の香りが漂ってきたそうだ。細い糸を辿るように、その香りの方へと歩いていくと光があった。次に見えたのは療養所の見慣れた天井だったそうだ。
 あの場所にもう金木犀は咲いていないが、秋になるとどこからともなく漂ってくる甘い香りを、理彦は生涯愛しく思ったという。


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