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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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試合前の控室

18/09/27 コンテスト(テーマ):第161回 時空モノガタリ文学賞 【 伝言 】 コメント:0件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:156

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 浩二は控室でひとり、重々しい沈黙のなかに浸っていた。。
 リングにむかうのは、あと三十分後と迫った。
 さっきまで彼のまわりをとりまいていたジム関係者たちはみな、闘いを目前にした彼のために、部屋の隅にひきさがった。
 こみあげる緊張感はすでに極限にまで達していた。椅子にすわって、固くバンテージを巻き付けた自分の手にじっとみいっている彼はいま、最大限の恐怖と底知れない孤独感とを相手に闘っていた。
 ここで弱気になったら、試合に勝つことはできない。自分に勝てないものが、どうして相手に勝てるだろう。ましてきょうの試合の対戦相手は、世界チャンピォンなのだ。
 浩二はこれまで負けなしの十五連勝を重ねてきてようやくつかんだ今回の世界挑戦だった。チャンピォンはメキシコのボクサーでこれまた二十一連勝無敗、KOはじつに十八というとてつもないハードパンチャーだった。一方浩二はというと、そのアマチュア仕込みの磨き抜かれたテクニックは天才とまでいわれるほどだったが、KO率は三割弱にすぎない。パンチ力では問題にならなかった。
 デビュー以来勝ち続けてきたその優れたボクシングテクニックを駆使すれば、必ず浩二に勝機はある。と、専属のトレーナーは、強い調子で彼を叱咤激励した。浩二自身、無敵のチャンピォンから勝利を奪い取るには、それしかないことは一番わかっていた。だがそのまえに、強烈な一発をくらったら……。ふいにそんな不安が頭をよぎると、たちまち心は委縮して、真夏の入道雲のようにつぎつぎにわきおこる不安のために、がたがたと体が目にみえて震えだすのをどうすることもできなかった。
 リングにあがったらもう、だれにも頼ることはできない。数か月間血を吐くような練習で鍛え上げたこの身ひとつを武器にして、一瞬でも気をぬいたらさいご、最悪命を落とすことだってありえる世界のなかで、世界最強の相手と戦うのだ。
 浩二は自分に、おちつけ、おちつけとなんどもいいきかせた。
――相手の右フックがきたら、スェーでかわし、すかさず右ストレートのカウンターをくりだす。相手は早いラウンドからKOを狙ってせめてくるので、こちらは足をつかって相手をいなし、後半勝負にもちこむ……。イメージトレーニングに集中する浩二のこぶしが空を切る様子を、控室の隅からスタッフたちが、じっとみまっていた。
 そんなとき、ドアをノックするものがあった。試合時間にはまだはやかった。この試合を放映するテレビ関係者が試合前の選手の様子をうつしにきたのかと、スタッフの一人がそっとドアをあけた。
「ごめんなさい」
 わずかに開いたドアのすきまから女性が顔をのぞかせ、かすれるような小さな声でいった。
「あ、奥さん」
 浩二の所属するジム経営者で会長の斎藤が、こわばった笑顔をうかべるのに、彼女は指を口にあてながら、
「あの、これを、主人に――」
 二つ折りにした紙を、彼にさしだした。
 斎藤はためらいがちに、
「これを彼に、わたすのですか」
「おねがいします」
「……わかりました」
 深々と頭をさげて彼女は、通路をたちさっていった。
 これにはおおかた、励ましの言葉が書かれているのにちがいない。と斎藤は、指につまんだ厚みのある紙をみつめた。浩二がいまどんな状態にあるのか、夫のことはだれよりもしっている彼女だから、いてもたってもいられなくなってこうしてここまで伝言を届けにやってきたのだろう。その気持ちは理解できても、もう試合まで数分の浩二がこれをみて、気持がぶれるようなことがあってはなんにもならなかった。
「会長。わたさないんですか」
 トレーナーの田中が、いつまでもうごきださない斎藤を、けげんそうにみつめた。
「うーん。どうしたもんかな――」
「あとで奥さんに怒られますよ」
 それには斎藤はちいさくうなずいた。
「浩二、これ奥さんが……」
 斎藤は、浩二の膝のうえに紙をひろげてのせてから、そそくさともどっていった。
 浩二はちらと妻の伝言に目を走らせると、にわかに顔をあげた。時間だった。
 試合は浩二が勝った。初回からつづく彼の軽快なフットワークは最終ラウンドまで衰えることなく続き、空振りを繰り返すチャンピォンを消耗させたあげく、彼のクリーンヒットがひかった結果、挑戦者に勝利を導いたのだった。
 浩二にわたした妻の伝言には、こう書かれていた。
 ――きょうはわたしたちの結婚記念日よ
 それをみたとたん浩二は、きゅうに肩から力がぬけてリラックスでき、おかげで試合を非常に有利にすすめることができたのだという。これが頑張れや、絶対勝ってとかだったら、逆に肩に力がこもって固くなり、思うように体はうごかず、はたして勝てていたかどうか。
 あとでそのことをきかされた斎藤は、妻帯者の選手たちひとりひとりから、結婚記念日をきいてまわったとか。


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