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アシタバさん

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〇山美咲の名前なくし

18/09/17 コンテスト(テーマ):第160回 時空モノガタリ文学賞 【 伏字 】 コメント:0件 アシタバ 閲覧数:111

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 よく物を落としたり、予定を忘れたりと、間抜けな私ですが、まさか自分の名字の一部を失ってしまうとは流石に予想できませんでした。
 〇山美咲にとって一生の不覚です。

 ある金曜日の夜のことです。職場の飲み会でその日はたくさんのお酒を頂きました。ちょうど難しい仕事が片付いて気分が高揚していたのです。しかし、暴飲のツケはすぐにやってきました。飲み会がお開きになる頃にはフラフラで一人では帰れない状態になっていたのです。
 そんな私を見かねた海山さんが家まで送り届けてくれることになりました。海山さんは物静かな男性ですが優しい先輩です。間抜けな私が仕事をここまで出来るようになったのもひとえに彼のご尽力の賜物なのです。海山さんの家の方角には足をむけて寝ることが出来ません。
 タクシーを拾って家まで付き添ってもらい、あまつさえ玄関のドアを開けてもらいました。
 しかし、ここで私は嗅ぎなれた家の匂いを吸い込んだのがいけなかったのでしょう。ほっとした瞬間、飲んだお酒を全部フローリングにぶちまけてしまいました。
 羞恥のあまり言葉が出ません。住み慣れたワンルームが沈黙に包まれます。
 好きな人の目の前でここまでやらかす自分が心底嫌になりました。
 すると、また口から何か出てきました。それはなぜか床に落ちた瞬間、ガラス細工のように粉々に砕け散ってしまったのです。
 「なに今の?」
 砕けた破片は氷のようにすぐ溶けてしまい何だったのかわかりません。まさか私は豪快にお酒に入っている氷を丸呑みしていたのでしょうか?
 気づけば海山さんが心配そうにこちらを見つめています。
「大丈夫、〇山さん?」
 え?
 海山さんに聞かれた瞬間、妙な違和感がありました。私の名字の発音がおかしいのです。私は森山というのですが、森という部分がまったく聞き取れないのです。森というところだけ、未知の生物の鳴き声のような音にすり替わるのです。
 これは私が酔っているせいか、とも思ったのですが、海山さんを見ると、彼も驚いた表情をしているのです。
 海山さんはもう一度、慎重に口を動かし始めました。
「〇山さん」
 二人で不安げに見つめ合います。
 この日以来、私は森山という名字を誰からも呼んでもらえなくなりました。あの破片は紛れもなく私の名字の一部だったのです。

 名字を失うとはどういうことか。まず、私は自分の名前を名乗れなくなりました。
「はじめまして〇山です」
 どうしても森山と言えないのです。また、自分以外の人間も同様に、私の名字を呼ぼうとすると○山になってしまいます。
 これには本当に辛い思いをしました。私の存在を誰からも否定されているように感じるのです。
 次に郵便物を確認しましたが全部、○山美咲という伏字になります。運転免許証や会社の名刺、これらも同じく〇山美咲になっています。試しに自分の名前を紙に書いてみたのですが、どうやら私に関わる森山という字は神様の見えざる手のようなもので即座に○山に変化するようなのです。
 当然、仕事と生活に支障が出て、私は疲弊していきました。すがる想いでお医者様にも行きましたが、「前例がなく治療法もない」そうです。私はさらに打ちのめされました。
 (〇山)
 それは私の名前ではありません。不気味で不完全な名前です。
 やがて、私はそう呼ばれるたびに心がずんと重くなり、「○」という化物の叫び声のような音に精神が引き裂かれるようになっていきました。もう、どこを探しても懐かしい私の森山は存在しないのです。誰かにちゃんと名前を呼んでもらいたい寂しさで気が狂いそうでした。追い詰められ、仕事を辞め、家から出れなくなりました。それからずっとひとりぼっちです。寂しいです。でも、誰かに会っても私の名前は呼んでもらえません。
 台所に包丁があります。
 このまま誰とも触れ合えない人生ならいっそ、この世から消えてしまおうかと考えてしまいます。
 突然、携帯が鳴りだしました。画面に発信者の名前が映ります。
「どうして?」
 あの人は今や元先輩です。私がどうなろうと、もう関係ありません。暫く、でるべきか躊躇しました。それでも電話は鳴りやまないのです。
 彼の声が聞きたくなりました。
 携帯を耳にあてると、温かい声が流れてきます。
「もしもし海山です」

「ママ」
 公園の芝生を走ってきた娘が私の腰のあたりに抱きつきました。心優しそうな顔つきは彼の雰囲気とよく似ています。そのすぐ後から、当の彼が手を振ってこちらに駆け寄ってきました。
 暖かな春の日です。
 私はしみじみ思います。もし、あの日がなかったら、今の私はきっと存在していません。だから私は彼の愛情にありがとうと伝え続けようと思います。この先もずっと。彼のプロポーズに対して。

 海山美咲にとって一生の思い出です。


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