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秘密

18/09/13 コンテスト(テーマ):第160回 時空モノガタリ文学賞 【 伏字 】 コメント:1件 新世界 閲覧数:147

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 梅雨入りしたばかりの空は暗く、今にも雨が降り出しそうだった。じっとりと重い、湿った空気が体中にまとわりつき、息苦しさを感じる。
 ――故 里村 沙也子儀 葬儀式場。
 自分の母親の名が書かれた看板を眺めるのは妙な気分だった。居なくなったという実感はまだ無いが、言葉で表現するにはあまりに纏まりのない気持ちで足元はぐらぐらと揺れていた。受付に並ぶ参列者には知らない顔の方が多く、学生の私はまるで蚊帳の外で、忙しそうに動き回る親戚のおばさんや式場の様子がどこか他人事の様にも見えた。仄暗い夕暮れの軒下に、御霊灯の光が滲んでいる。シトシトと音も無く雨が降り出した頃、葬儀は静かに始まった。

 母は優しい人だったと思う。物心つく頃、父は既に家に寄り付かなくなっていたが、寂しいと思った事は少しも無かった。母がいつも側に居て、私の話を聞き、寄り添っていた。ある日はホットケーキを焼き、二人で食べた。私がうっかりとんでもない場所で昼寝をしてしまっても、母はそっと毛布をかけ頭を撫でてくれた。あのホットケーキの甘さや柔らかさ、陽だまりの中、髪をなでる母の優しい手の感触を、私はずっと忘れる事が出来ない。
 又、母は責任感が強く神経質で、間違った事を嫌う潔癖な性格でもあった。完璧であろうとする反面、そうならない現実とのギャップに常に苦しめられていた様に思う。なぜそんな事が分かるのかと言うと確証はないが、母と私は似ていると感じる節が度々あったというのが理由と言える。そして私が小学校に入った辺りから、母の様子は徐々に変わり始めた。
 
 ある日、学校から帰ると部屋の中は暗く、夕方だというのに明かり一つ付いていなかった。この時間はいつも母が居るはずである。静まり返る家の気配に、腹の奥の方を不安な気持ちがざらりと撫で上げた。「お母さん?」何度か声を絞り出しながら、玄関を上がり廊下をゆっくりと進む。居間のドアを開け、しかし足を踏み入れるのは躊躇われたので廊下の方から精一杯腕を伸ばし、手探りでなんとか電気のスイッチを押した。照明の明るさに咄嗟に目をつむったが、焦りを感じながら少しずつ目を開けると、ダイニングテーブルに腰掛けた母の姿を、私はようやく見つけたのである。
 
「お母さん?」
 下から覗き込む様に、恐る恐る声をかけた。いつもと様子が違う事は、子どもの私でも分かった。視線は遠く、どこを見ているのか分からない。力無くうなだれた全身が、急に痩せこけてしまったみたいな印象で怖かった。しかし母の中で、それは何も急な変化ではなかったのだという事を知ったのは、もっとずっと後になる。
「あら……、おかえりなさい」
  夢から覚めた様な声で、意識を取り戻した母が応える。
「今日は遅かったのね。そろそろ夕飯の準備をしなくちゃね」
  帰宅時間はいつもと変わらなかったが、私はただ「うん」と答えた。

 あれ以来、母には頻繁に『そういう日』があり、だけど毎日はいつも通り過ぎていった。母は平静を装っていたし、私も知ろうとしなかった。触れてはいけない物の様な気がした。そしてある時、私は母から平手を受けた。何が原因だったかは思い出せないが、きっかけは些細な一言であったように思う。母は目を見開き、何かを発見した様な驚きの顔で私を見ていた。この瞬間から、母と私の間で秘密の関係が始まったのだ。ぶつ方とぶたれる方。これから十年間、私は母の苦しみや悲しみを誰よりも間近で聞き、感じ、多くの涙を見た。
「あんたを○○○、○○○」
  呟くように、時に私に向かって、母は沢山の言葉と感情を私の中に刻んでいった。卒倒しそうな日々が延々と続き、憎む事も抗う事も思い付かず、次第に私は母と同じ物になった様な感覚さえ抱き始めた。母は優しく、厳しく、寂しい人だった。

 式は粛々と滞りなく進んだ。弔辞を読んだのは私だったが、当たり障りのない言葉を並べただけの文章にも会場は大いに涙した。きっと母と子の絆だとか、仲睦まじい親子の様子を思い浮かべたのだろう。ここ数年顔も合わせなかった父が、母を語っている場面に嫌悪感を抱いた。こんな茶番の様な二日間も、間もなく幕を降ろす。雨はいよいよ強くなり、泥を跳ね上げながら地面を叩きつけていた。

 綺麗に化粧された母は、生前の苦痛などどこにも無かった様に薄く微笑んでいる。白い肌に淡いピンクのチークが少女のようで、でも触れると芯まで伝わって来る冷たさがあった。死因について、警察は幾つか述べていたが頭に入ってこなかった。

 別れ際、髪を撫でた。いつか母がしてくれた時を思い出しながら。母が私に残した濁流の様な感情を何と呼ぶのかはまだ分からないが、言葉にしてしまえばどれも違う気がして込み上げるものを飲み込んだ。
「お母さん、○○○○○」
 涙だけが、幾筋も幾筋も頬を伝った。


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このストーリーに関するコメント

18/09/16 hayakawa

ハラハラする展開で一気に引き込まれました。深みとエンターテイメント性を備えた素晴らしい作品だと思います。

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