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向本果乃子さん

目をとめて読んでいただき嬉しいです。読者としても、自分には書けないジャンル、アイデア、文体がたくさんあって、楽しみながらも勉強させて頂いてます。運営、選考に携わる皆さんにはこのような場を設けて頂き感謝しています。講評はいつも励みになります。

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Prayer for healing

18/09/03 コンテスト(テーマ):第160回 時空モノガタリ文学賞 【 伏字 】 コメント:3件 向本果乃子 閲覧数:239

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 今日最初の患者ー三十代の痩せた女性が口を開く。
「どうしても書かないとだめですか?担当医は報告しておくと」
「聞いています。ただ、自分の言葉で書くことが必要なんです」
 女性は渋々鉛筆を握った。字を書くこと自体久しぶりなのだろう。何度か握りなおして真っ白な紙を見つめる。
「決まりはありますか?」
「ありません」
 女性はしばらく紙をみつめていたがやがてゆっくりと書き出した。書いては消しを繰り返すうち珈琲を飲むことも忘れて夢中になってゆく。
 淹れ立ての珈琲の薫りが満ちた部屋。暖かい色の電球に柔らかく照らされたクリーム色の壁と床。部屋の真ん中に患者の座る木の机と椅子。私は窓際の小さなソファに座り女性の横顔を眺める。鉛筆を滑らせる音だけが響く。
 小一時間が過ぎて女性は鉛筆を置いた。私はゆっくり近づくと紙に目を落とす。そこには筆圧の弱い小さな文字がぎっしり並んでいた。不安や悲しみや困惑が様々な表現で繰り返し書かれている。書きながら感情が高ぶってきたのか途中字が揺れている。
 私は黒のペンを差し出す。
「嫌だと感じる言葉を丁寧に塗り潰して下さい」
 女性は怪訝な顔をしたままペンを受け取る。
「許せない言動、負の感情、何でも構いません」
 書くことで洗い出され認識された言動や感情。その中でも自分を闇に閉じ込める核心的な部分を黒く塗り潰してゆく。塗り潰せば心からも消えることを期待しそうになるがむしろ逆で、患者はそれとまっすぐ向き合うことになる。例えば「誰も私を愛さない」という文章の「愛さない」を、例えば「醜い感情に溢れた自分は外も中も汚い」という文章の「醜い」や「汚い」を一文字ずつ塗り潰してゆくと、なぜか心はざわつくはずだ。そして、伏せられた言葉はむしろ心にくっきり浮かび上がり、胸に突き刺さってくる。
 女性は数文字を黒く塗り潰した後、一瞬ためらったように手を止めた。しかしまた意を決したように塗り潰していく。たくさんの黒い点が散らばった紙を前にして女性は呆然とする。頬が紅潮している。
「一週間後、またお越し下さい」
 この患者は数ヶ月もすれば落ち着いてくるだろう。私は女性の書いた紙をぴりぴりと破く。来週にはまた違った文章になる。さらに詳細を書く人もいれば全く違うことを書く人もいる。細長くした紙をさらに細かくちぎってゴミ箱に捨てた。ソファにどさっと座り天井を見上げて目を瞑る。

 次に来る若い男の患者はもう一年通っているが心が整理されるまでにも至っていない。最初は鉛筆を持つことすらしなかった。三回目で鉛筆を持つも一言も書けず、二ヶ月目でやっと少しずつ書き出した。苦悶の表情で固まったり、過呼吸になったりしては中断し、半年を費やして一回目を書き終え、さらに半年かけて塗り潰した。
 患者たちを見てきて思うのは、他者への憎しみや恨みが問題の根本にある人は比較的治癒しやすく、否定や憎悪が己へと向かっている人は簡単ではないということだ。
 私が初めてここに来たのは三十年も前のことになるが、私も彼と同じくらい厄介な患者だった。己と人生に立ち向かう力を取り戻すのがここの役割で、それはとても時間のかかることではあるが、書いて塗り潰すことを繰り返すだけでほとんどの患者が不思議と変わっていく。しかし中にはやはり完治しきらない、己を受け入れ外の世界で生きていくことができない者もいる。そんな患者の中から、この仕事を引き継ぐ者が現れるー私のように。
 彼が次の後継者になるのかもしれない。けれど、できることなら外の世界で生きて行けるようになってほしい。もちろん、ここで多くの患者たちを見守ることの尊さを感じていない訳ではない。私はこの場所があったから、この役割を与えられたから生きてこられた。それでも、彼にはこの場所を不要とする日が来てほしい。犯罪者の子として生まれた時から虐げられてきた彼が、他者を憎むのではなく自らを責め己を否定し、生きることに背を向け苦しんでのたうちまわるのを、この一年、週に一度、この場所でずっと見てきた私は、彼が自分を許し愛し心からの笑顔を見せて外に出て行くことを願わずにはいられない。しかし同時に、もしかしたら、彼が生きていける場所はここしかないのかもしれない、とも思っている。
 己と向き合いたった一人で苦しみ闘う患者を、無力に見守り祈ることしかできない存在がそこにいること、その意味。それを私は前任者からも経験からも教えられた。
 後継者となり患者たちを見守っていくことが、彼の救いとなり生きる術になるだろうか?
 私がここまで生きてこられたように?
 細い道の先から俯き加減でゆっくりと歩いてくる彼の姿が、窓越しに視界に入る。
 私は淹れ立ての珈琲の薫りで部屋を満たすために立ち上がる。
 それは、私が見守り祈る以外に患者のためにできる、唯一のことだ。


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このストーリーに関するコメント

18/09/09 みゆみゆ

患者の不安定さと比べて「この場所」の確かさがいいですね。部屋の描写も珈琲の香りも前任者から私への時間の流れも、確かなもののようで少し淋しいのがグッときます。向本さんはいつも、長編を望みたくなるような世界を作っています。

18/09/15 向本果乃子

みゆみゆ様
いつもありがとうございます。この短い小説の世界とそこに漂う気配みたいなものを描きたいと思って、文体や描写を意識して書きました。全体に漂う何かを感じていただけたならとても嬉しいです。

18/09/16 hayakawa

凄く深く、高い技術力で凄いです!

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