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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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伏せられた名前

18/08/29 コンテスト(テーマ):第160回 時空モノガタリ文学賞 【 伏字 】 コメント:0件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:181

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 こういう地方のホテルだからか、二人の名前を記帳してくれと受付にいわれて、私がとっさに「来栖富雄」と書いたのは、彼女がいつも私をみてトム・クルーズに似ているといっていたからだった。それまでトム・クルーズという俳優のことをしらなかった私だが、彼女にいわれてからはその俳優が出演している映画などもみるようになって、へえ、おれってこんなイケメンなのかと、自惚れもてつだっていささか気をよくしていたのだ。
 横からのぞきこんでいた彼女がその名をみてくすりと笑った。すぐ彼女も、トム・クルーズを連想したのはまちがいない。
 彼女は私からてわたされたボールペンをにぎると、私の名前のならびにただ、「麗子」とだけ記した。二人はここでは、「来栖富雄・麗子」夫妻ということになった。
 受付がそれをみて、二人の関係を字義通りにとらえたかどうかは不明だが、みずから夫婦となのる四十半ばの男女を、勘ぐってみたところではじまらないと、そのゆるがぬ礼儀正しい物腰は語っていた。
「お部屋は七階です」
 私と彼女は受付の反対側にあるエレベーターで、途中一度も止まることなく最上階の七階に上った。そこには客室は三つしかなく、他の部屋は物置になっていた。私たちの部屋は通路のはずれで、正面の部屋の開いたままのドアから、黒皮の丸椅子がひとつのぞいていて、そこがクリーニング室だということはエレベーター内の案内板でたしかめていた。人目をさけてやってきた私たちにはおあつらえむきの部屋があてがわれたというわけだ。
 入り込んだ部屋のドアをしめてまず私は彼女にたずねた。
「麗子という名は、なにか意味があるのかい」
「『麗しのサブリナ』っていう昔の映画、しってるかしら」
 トム・クルーズもしらなかった私が、そんな映画をしっているはずはなかった。
「どんな映画かな」
「オードリーヘップバーン主演の、ずいぶんと紆余曲折のある恋愛映画よ。いっしょに出てるハンフリーボガードがすてきなの」
「麗しのサブリナで麗子か。きみらしい」
「あたしまえにひとから、ヘップバーンに似てるといわれたことがあるのよ」
「それじゃ二人は、ヘップバーンとトム・クルーズというわけか。二大俳優の共演だね」
 私たちは笑った。ここにくるまでの、かたときもとぎれることのなかった緊張と不安から解放され、宿帳に偽りの名前をつらねてようやく手にしたよろこびのこの瞬間を、しゃにむにむさぼろうとでもするかのように……。
 私たちは、何日もついやして計画をねり、私は妻に彼女は夫にそれぞれ一泊旅行の予定を告げてきょう、このホテルに夫妻を装ってやってきた。
 宿帳におもいつきの名前をかいたとき、想像していたようなうしろめたさがひとつもわきおこらないのを私は、むしろ意外におもった。トム・クルーズをもじったことで、きもちはすでに、虚構にいのちをふきこむ映画俳優になりきっていたのだろうか。
 ここにたどりくまでの、涙ぐましいまでの計らいがとにかく達成されて、一段落ついたせいか肩の力がぬけたもようで、しばらくはただ、彼女がいれた湯沸かしボットの湯がたぎるけたたましい音をききながら、たがいに目をみかわすばかりだった。
 しかしもはや、ここからでるときは、以前のような二人ではなくなっていることだけはたしかだった。あうときはかならず、実名は伏せて、富雄と麗子という、じっさいには存在しない男女として行動することになるのだ。
「『麗しのサブリナ』のラストは、悲劇に終わるのかい」
「いいえ、ハッピーエンドよ。だってヘップバーンの映画だもん。どうしてそんなこときくの」
 われわれもそうなってほしいものだと、いいそうになった私だったが、けっしてそうはならないことは、二人ともよくわかっていた。二人にできる唯一のことは、いまこのときを、なにもかもわすれて、燃えることだけだった。
 みつめあう彼女の目の奥が、熱をおびたように妖しげにかがやきだすのがみえたそのとき、私のズボンからとつぜん、スマホが鳴りだした。カッとなってスマホの電源をきろうとした私は、それが妻からのものだとしって、おもわず耳にあてていた。
「――もしもし、あなた。あなたいま、どこにいるの」
 さいしょからとげのある妻の声に、私のスマホをにぎる手がふるえた。
「いっておいただろう、写真クラブのみんなとの、旅先だよ」
「あのね、いまさる人から電話があって、あなたがホテルで女といっしょにいるといってきたわ」
「だ、だれがそんなことをいったんだ」
「わけあって名前はふせるといっている。もしかしたら、女の亭主かもしれない――もしもし、きいてるの、あなた」
 トム・クルーズもこんなみじめ顔をするのだろうかとおもいながら私は、なんともなさけない気持ちで、不安そうなまなざしをなげかけている彼女の顔をみかえした。
 





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