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腹時計さん

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言葉にならない、●してる

18/08/25 コンテスト(テーマ):第160回 時空モノガタリ文学賞 【 伏字 】 コメント:0件 腹時計 閲覧数:157

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 その日まで、彼女のことがとりわけ好きだということはなかった。
 少なくとも、自覚している分には。

 その日の朝、湊章太は朝七時には起きて、ゆっくりと朝食を取り、課題のレポートをコーヒー片手に片付けた後、昼近くになってから、大学へ向かった。こんなに余裕のある午前中を過ごすことは滅多にない。時間の余裕は、心にもゆとりをもたらす。なんだかすれ違う人に対しても、朗らかな挨拶をしたくなる気分だった(章太は人見知りなので、しなかったが)。
 その途中、乗り換えの電車を待っているときに、ジーンズのポケットが、不気味なバイブで震えた。ホームは人もまばらだったし、そこでスマホを取り出した。父からだ。
 通話ボタンを押した二秒後、その世界が変わるとも知らずに。

 ―――――

 章太には、小六のときから義姉がいる。つまり、親同士の再婚で姉と弟になったのだ。義姉は当時高一で、ずいぶんと大人に見えたものだ。
 義姉は少し変わっていた。進学校に通う才女と聞いていたが、実際は頭は良いのに天然、というタチで、何もないところですっ転ぶ人を、漫画以外で初めて見た。朝起きて歯磨き粉で顔を洗っていたこともある。飼っている黒デメキンにはなぜか「小野妹子」と名付けていた。「小野妹子」は、義姉のお世話のおかげで丸々と成長した。
 突然、半ば無理矢理のように引き合わされた姉弟だったが、その相性は良かった。当時国立の医学部を目指していた義姉は、たびたび章太の勉強を見てくれた。そして彼女の優秀さは本物で、ほんとうに志望校に一発合格したのだ。そのときは手を取り合って父も母も一緒になって大喜びした。
 彼女は一年前から、とある貧困地域の医療補助ボランティアに参加していた。あともう一年は現地にいる予定だ、と先週電話したときに言っていた。ゴムボールが元気よく弾むように、張りのある声だった。
 それが最後に聞いた声だった。

 ―――――

 章太は、人目もはばからずに叫んでいた。何人もの迷惑そうな冷えた目が突き刺さる。駅のホームで泣き叫ぶ男など、不審でしかないのだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。
 海外でのボランティア中。交通事故。あちらで様々な取り調べをして、検死して、手続きをして、それからようやく、日本に戻される。会えるのはずいぶん先になるだろう。
 父は嗚咽混じりでそんなことを章太に伝えた。それから、自分の帰りは遅くなるので、母と先に食べていてくれとも。
 医者を志す者として、海外での経験を積んでみろと義姉に発破を掛けたのは、父だった。どうしても黒い感情は抑えられそうもなかった。だが、章太は、つとめて穏やかに父を慰めてから、電話を切った。
 章太にとっては、義姉だけではなく、父だって大切な存在だったから。

 どうやって帰ったのか、講義を受けてから帰ったのかさえよく覚えていない。ただ、気がつけば自分の部屋にいて、「小野妹子」をぼんやりと眺めていた。
 ゆらゆらと、水草の向こうで踊っているデメキンは、義姉が出国する際に、章太の部屋で預かって飼うことになったのだ。墨を流したように見える黒いひれを優雅に動かしながら、「小野妹子」は口をぱくぱくさせて餌をねだっている。まさか、自分の飼い主が死んだとは知るよしもない。
 章太は「小野妹子」の水槽の裏に貼り付けてあった便箋を取り出した。ボールペンで書き殴ったそれは、三年ほど前に書いたものだ。
 
『●してる』

 まっさらなシーツのような無地の便箋に、たった一言。
 義姉への思いを断ち切るために、それだけ書いて、忘れようと決意したのだ。あのときから今まで、章太は、姉にとって良い弟で有り続けようとした。義姉が章太をどう思っていたかはよく知らないが、少なくとも、しょっちゅう電話をしていたし、現地の写真を送ってくれていた。良好だったはずだ。
 だが、それも今、無駄になった。押さえつけていた思いがあふれて止まらない。

 最初の一文字は、ボールペンでぐちゃぐちゃに塗りつぶされていて、裏から透かしてみても、その文字は読めない。ただ、何を書いたのか、章太は覚えている。
 好きになってはいけない人を好きになったことを忘れようと思った、その時の感情ごと、鮮明に思い出せる。あのときだって辛かった。苦しかった。
 でも、それは、彼女を失った今日を超えはしないのだ。

 ――義姉ちゃん。残酷すぎるよ。
 この先、二度と彼女への愛を口に出せない。家族はもちろん、友達や、将来もしかすると結婚するかもしれない相手にも、この思いは告白できない。ずっとこの後悔はついて回る。黒く塗りつぶした伏字が、亡霊のように、影のように、章太にひっついて離れない。
 その重さに、自分の臆病な心に、章太はただむせび泣いた。 


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