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二十日鼠さん

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残り香

18/08/18 コンテスト(テーマ):第159回 時空モノガタリ文学賞 【 片想い 】 コメント:0件 二十日鼠 閲覧数:235

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 「俺はずっと海に片思いしているんだ」
 それが彼の口癖だった。
 彼は三つ年上の、日に焼けた浅黒い肌が印象的な体格のいい男で、母親と二人で暮らしていた。もともと人口の少ない地域であったから、子供も少なく、家が近いこともあって、僕は彼とよく遊んだ。
 遊ぶ場所は決まっていつも海だった。石が多い岸辺はしんとしていて、波が押し寄せる音と、鳥の鳴く声がよく響いた。僕も彼も、その静けさとやわらかな潮風のにおいが好きだった。
 よく晴れて地平線の向こうまで見渡せる日には、波打ち際に並んで座って海を眺めた。遠くに見える船の数を数えては、二人で何を載せた船か想像して楽しんだ。「あれは魚を大量に積んでいると思う」とか「あれはきっとタンカーだな」とか、適当に言い合った。
 あるとき彼は、「海のどこが好き?」と僕に尋ねた。うーん、と少し迷った後、
「においかな」と僕は答えた。「あと波の音とか、鳥の声とか」
ふうん、と彼は言って、まっすぐに海を見た。波の向こうを見つめる彼の目が、その日の海のように透き通っていて、力強くて、彼の横顔に目を奪わずにはいられなかった。
「俺は海の全部が好きだよ。においも、音も、全部ね」 砂利の上で体育座りをした格好のまま、彼は遠くを見ていた。
「はじめて生物がうまれた場所は海なんだってよ。俺たちは海からきて、死んだら海に帰っていくと思うんだ。不思議だよなぁ、どうしたって嫌いになれないんだ」
 僕は返す言葉がなくて、海を見た。僕も海は好きだけれど、ときどき怖くなる。自分の大事な人や、自分自身があの波に飲み込まれて、そのままさらわれてしまうのではないか、と考えてしまう。だから、彼は強いと思う。
 彼の父親は漁師だった。大型漁船の船長で、その道では有名な人物だった。朧気ではあるが、彼の父親がまだ生きていた頃、漁船に乗せてもらってはしゃいだ記憶がある。数年前に大嵐が起きた夜、彼の父親はちょうど沖に出ていて、行方がわからなくなった。そして翌朝に転覆した船が見つかった。まだ中学生の一人息子と妻を遺したまま、海にさらわれたまま、時間がたった。それから半年か一年か忘れてしまったけれど、夏の蒸し暑い夜、ひっそりと、静かに彼の父親の葬儀は執り行われた。
 一度だけ、彼の家に招かれたことがあった。葬式の数ヶ月後だったと思う。彼の母親は、最愛の夫を亡くした後も気丈に振る舞って見せた。ようやく中学生になったくらいの僕にはわからなかったけれど、今思えば相当無理をしていた気もする。見よう見まねであげた線香の煙は、まだどこかで生きているのではないか、という安易な僕の希望をつれて消えていった。
 「親父を探しに行こうと思う」
彼の力のこもった声にはっとして、我に返る。僕の困惑の表情を見た彼は、すかさず続ける。
「見つからないことはわかってるよ。でも、きっと親父の気持ちがわかると思うんだ。親父のこと、たくさん知る前にもう聞けなくなっちやったから、海が教えてくれる気がするんだ」
 年上の彼がもっと年上に見えて、僕はなんと言葉をかければよいのかわからなくて、小さい声で、うん、と頷いた。夏のはじめの海風が運ぶ潮のにおいが、急に懐かしいようなさみしいような気がして胸がきゅっと痛んだ。
 それからいくつかの季節が過ぎ、時間が流れ、彼は漁師になった。彼を見送ったとき、久々に彼の母親を見た。母親は記憶の中よりも年を取っていて、シワが目立ち始めた華奢な手で、彼の手をぎゅっと握っていた。
 船は静かに波の上を滑り、遠ざかってゆく。すべてが順調にいくような気がした。根拠のない自信が湧いてきて、それを彼に伝えそびれてしまったことに後悔する。  僕は船着き場のぎりぎりのところまで行くと、大きな声で叫んだ。
 おうい。頑張れよぅ。おうい。
 返事はない。耳を澄ましたけれど、カモメの鳴く声と潮風しか聞こえない。その間もだんだんと船の姿は小さくなっていく。
 そのときだった。
 ――心配するな。俺がついているから。
 気のせいだろうか。風音とともに彼の声ではない、もっと低い声が聞こえた気がした。ささやくような、でも底から聞こえる力強い声だった。
 きっと海だ、と僕は思った。海が、海の中で眠るすべてが僕の声に答えてくれたのだ。潮のにおいを吸い込むと、もう一度僕は海に叫んだ。


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