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霜月ミツカさん

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一冊の本だとしたら

18/07/22 コンテスト(テーマ):第158回 時空モノガタリ文学賞 【 あとがき 】 コメント:0件 霜月ミツカ 閲覧数:224

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 彼との出会いは、わたしが二十四歳のとき。彼はわたしよりも二十歳も年上で奥さんと子どもが居た。どこが好きかと訊かれたら多分、性格と答えていたけれど、実際は笑い皺とか、目の下のシミとか、そういうところが好きだった。優しくしてくれるひとはたくさんいるけれど、彼の目尻に刻まれた皺の深さを見て、このひとはいままで酸いも甘いも噛み分けて生きてきたのだと想像するのが好きだったし、彼がいままでどんな風に笑ってきたのか考えると胸が締め付けられるような気がしたし、泣きたくなることもあった。目の下のシミは、彼が紫外線に傷つけられるような生活を送った、つまり、子供頃や、彼の子供と外で遊んできたのかとかそんなことを考えた。
 わたしが言わない限り、わたしの気持ちが彼のこころに刺さることなんてない。そんなことわかりきっていた。女の二十四歳という年齢の価値は、わたし自身にとってあまり重くなかったし、彼がどう思っていたかいまとなっては確かめようがない。
 ただ、愛して欲しいと思いながら気持ちに蓋をしていたまま五年が過ぎた。

 わたしは二十九歳になって、彼は四十九歳になった。わたしが歳を取っても、彼に追いつくことは永遠にない。
 同い年の友だちが結婚や出産をしていくことを、まったく自分と別世界のできごとと感じながら、焦りがまったくないわけじゃなかった。自分もそうしたい、というよりもこの片想いの着地点がわからないことが、ただただ毎日怖かった。相談した友人には「別のひとにしなよ」という模範解答で返された。それができているなら、とっくのむかしにそうしている。このままだったずっと彼のことを想い続けたまま死んでしまう気がした。
 ならばいっそ、それでもいい。

 相談があるんです。仕事のことで。
 そうやって言えば優しい彼が、わたしの誘いに乗ってくれることはわかっていた。
 場所は会社の女子がよく逢いびきで使う個室の居酒屋で。
 大した相談も用意できなかったけれど、彼はわたしの相談にひとつひとつ親身に答えてくれた。子どもの頃見た流星群を思い出していた。彼が笑うたび、こころが輝いた。とめどなく、輝きが降ってきた。きょうは特別な日。永遠に。彼は特別なひと、永遠に。
 
 ホテルに運び込んだ彼はぐっすりと眠り込んでいた。彼が席を立ったとき、彼のお酒の中に睡眠薬を混ぜた。
 ひとが、一冊の本だとしたら、彼という本は文字がぎっしり詰まっている文庫本のはずで、わたしという本は行間だらけで本として成立しないだろう。
 気持ちを伝えたら、どんな顔で断られたのだろう。彼は目尻にたくさん笑い皺をつけて困り笑いをしただろう。でも、わたしはそんな顔を見ずに済んだ。
 こんな風に、こんな形でしか、彼をモノにできないことが辛かった。
 わたしは思い切り、彼の唇に唇を重ねた。
 彼の匂いを思い切り吸った。
 殺してしまいたいと思ったし、彼を殺して自分も死んでしまいたいとも思った。
 だけど、そんなことできない。わたしの少しだけある良心が、そうしないように引き止めてくれた。
 彼が起きてしまう前にわたしが手に入れられるだけの、彼のすべてをわたしの視覚、嗅覚、触覚、聴覚、味覚、神経、細胞に染み込ませた。
 彼が起きてしまう前に、わたしの恋心が燃え尽きる前に。

 ホテルで目を覚ました彼がどんな顔をしていたか、わたしが知ることはなかった。
 ただ、彼の鞄の上に「愛していました」とだけ書き置きをした。
 それから彼に会うことはなかった。

 たとえば、わたしが一冊の本として成立したならば、あとがきに書くとしたらこんなこと。わたしの記憶から消した彼のことを書いて終わりたい。


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