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18/07/16 コンテスト(テーマ):第1回 時空モノガタリ短編文学賞 コメント:0件 27 閲覧数:297

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 小学生の頃だった。バラエティ番組の笑い声が響くリビングルームで、父は自らの胸を叩いた。同時に台所に立つ母が、食器棚に手を伸ばす光景を覚えている。棚から一枚の皿が落ちると、小さな悲鳴をあげた母は物憂げな視線を落とした。振り返る父の首と同じ速度で、笑顔が出来あがった。
「大丈夫よ」
 自慢話を遮られた父は「そうか」と言って私に向き直った。しゃがみこんで皿の破片を集める母は、あの表情に戻っていた。父は背後を見つめる私を、熱心な聴き役だと優しく撫でた。
 友人と家族の話をするとき、この部分を切り抜いて使った。父は心配をしていて、気丈な母に安堵したから、私の頭を優しく撫でたのだ。そう話せば友人は苦笑いを返した。
「お父さんに触られるの、嫌じゃないの?」
 首を横に振る他なかった。父が一人になってしまうと思った。
 父のことは好きではなかった。こびり付いた油汚れみたいな嫌な匂いを感じることがあった。重なって落ちなくなって、積もり固まって微動だにしなくなっているのだと思った。その一つ一つを聞かされる度に、過去の産物なんて塵だと考えた。悪臭を放つくらいなら捨ててしまえばいいのにと思っていた。
 けれど、嫌いでもなかった。どうしてかその油臭さに、温かみを感じることがあった。母との出会いについて話した時、父は「一生を彼女に捧げようと思った」と言った。彼女、なんて言い方をされた母は困ったように笑い、「貰ってしまったの」と言う。父が好きになった。その時だけはたまらなく父が好きだった。
 父の手帳を覗き見たことがあった。薄っぺらく、お洒落の欠片もない簡素なそれに、仕事の予定だけがボールペンで書かれている。見せる用途でない文字は単純そのもので、どんな匂いもしなかった。安堵して、興味の矛先が変わる。あの時私の手が、母の洒落た鞄の中身に伸びなければ良かった。
 女は強くなくては、と母は言った。一人娘の私を二人目の自分のように育てた。結局拠り所のない人だった。諭すように勉強を促され、私は理系の大学に進むことに決めた。今でも社会科目、特に歴史全般が嫌いだ。
 最先端の研究は爽やかで艶を持っている。誰の指紋にも塗れていないそれは綺麗と評する以外にない。女にしては強く育った筈だし、それにまだ綺麗なままだった。一生を捧げる気も捧げられる気も起きない。なのに就職が決まると、顔も知らない男に告白をされた。
 気弱そうな顔をしていた。同じ大学に通っていたらしいけれど、噂を聞いたこともない。笑顔の作り方くらいは覚えていたから、学部を聞いた。「西洋史の」まで聞こえると、大嫌いだと思った。こいつは私の過去の生活を見て、あるいは生まれ持った顔を見て、今の私を一度も知らないままで、好きだなんて言ったのだと思った。途端に自分から、こびり付いた油のような悪臭が漂ってくる。こいつはこの匂いを嗅いで、父のような人間を思い浮かべたかもしれないと思った。
 青ざめる私を見て、そいつは真新しいハンカチを渡してきた。「まだ使っていないから」と言われると、腕に巻かれた真新しい腕時計も見える。
「それ、いつ買ったの」
 出てきた声は母に似ていた。母は新しいものが好きだった。若い母がこの場にいたなら、男の手を握っていたと思う。相手は「格好悪い理由なんだ」と勿体つけてから、情けなく笑った。「今日のために、その」言い淀んで、下を向く。拠り所のなさそうな奴だった。連絡先を交換してやると、相田という名前だった。自信なんて何の価値も持たないものに、少なくとも、縋らずにいられる奴なのだと思った。
 一人で暮らすようになってからは、煩わしい思いをしなくて済むようになった。二年間で、三回の引越しをした。同僚には「潔癖症だ」と言われたけれど、会社までは変えられない。幸い専門職についたおかげで、人との関わりは少なく済んでいた。帰ってくると必ず家にいるあの男以外には、業務以外の内容を毎日喋るような相手もいない。
 相田は合鍵を持っているくせに、毎日玄関を開けずに待っていた。正面に本人がいるのに、必ずポストに私宛の手紙を入れる。当たり前に携帯は持っていたし、手紙の内容を読まないことで困ったことはない。相田は私の家に届く手紙を自分で受け取って、わざわざ置き場所を作り、日付毎に並べてしまいこんだ。燃やしてやろうかと思った。けれど相田が昼の仕事で、私の何十倍も他人と関わって、酒を飲み、頭を下げているのだと思うと何も出来なかった。その頃から、自分が弱くなるのを感じていた。
 翌朝、全身の倦怠感が酷かった。重い頭と、軽い目眩。会社の医務室に行くと、貧血だと診断された。微熱が続いていたから風邪薬を買って帰ると、相田はいなかった。
 急に悔しくなった。一人じゃ何も出来ない癖に、いつも私が帰って来る瞬間を子供みたいに待っている癖に、こんな日に限ってここにいない。何年ぶりかわからない弱音でも吐いてやろうかと思ったのに、出てこなかった。悲しくなかったからだと思ったら気持ちは冷めた。
 医務室から病院を勧められても、相田に伝えることはしなかった。総合病院の無機質な雑音に囲まれて待っている瞬間、どうして長い間、あいつと一緒にいたのだろうと思った。生きてきた年数を数えて、その中で関わった人間を掘り起こして匂いを嗅いだ。吐き気がして、その場で吐いた。幸い、若い看護師が支えてくれた。鞄に入れてあったティッシュペーパーで口元を拭いながら、消毒液をふりかける目の前の女性を眺める。
「結婚していますか」私の口から出た言葉だった。彼女は困惑した表情で頷いた。
 入院する日程が決まった。驚くほど呆気なく、退院予定も告げられた。過去から引き戻したのはノックの音だ。
 音のない病室は相変わらず無機質だった。床頭台の引き出しのあたりだけが、無理矢理に温かみのある木目を見せている。淡い色のカーテンを開けたのは相田だ。
「なんで今日だって、言わなかったんだよ」
 そう言うと私の両手を握った。触れられることに抵抗する気にもならなかった。私の左手には指輪がはまっている。相田はそれを、ゆっくりと外した。
「これ、買っておいて良かった」
 指輪を眺めて、ベッド脇のパイプ椅子に座る。ギィ、と惨めな音がする。重そうなビジネス鞄を床に置いて、情けない笑みを見せた。こんな時くらい笑い方を変えたって許してやるのに、そう思ってからあえて変えないのだと気付いた。「そんな顔、これから会う子に好いて貰えないんじゃないの」言おうとしてやめた。相田の手が震えていた。
「ごめん。嘘をついてたんだ」
 こんな状況で言われるとは思っていなかった。けれど驚きはしなかった。私は好意なんか見せたことがない。顔だって綺麗なわけじゃないし、何かを返した記憶もない。つまらない性格に魅力を見つけられる筈もなかった。多少の雑談を交わしたことのある同僚には、性別以前に、人間味を感じないと言われていた。疑問もない。
 けれど思いがけず恐怖に襲われていた。最後の日だからかもしれない。きっともうすぐ、強制的な、不可逆的な変化が起こる。少し前までそれを求めていたはずだった。自分の感情がわからないのに、やけに冷静だったから、嘘をつかれて然るべきだと思った。
「仕事なんだけど、実は、営業なんかしてない」
 散々脅かしておいて相田は、余りにもつまらない嘘を明かした。笑ってしまいそうになった。だから、なんだっていうの。けれど見えるのは深刻な表情だ。
「歴史の、研究をしてる」
 あぁ、覚えていたんだ、と思った。私が嫌いだと知っていたから、この何年間ずっと隠していたらしい。聞いて確かに、相田のことも少し嫌いになった。けれど特有のあの油臭さは感じなかった。
「ずっと嘘をついてた」
「いいよ」
 自分の喉から出た声に驚いた。初めて聞いた声だった。笑ってしまう。相田は黙る。
「歴史なんて追ってないで、前向きに生きたら? とは、思うけど」
 続けてそう言ってやった。過去へ過去へとさかのぼって、何が楽しいのだろう。未だに理解が出来ない。「好きになったら、その人の触れる全部まで好きになっちゃうんだ」と高校のクラスメイトが言っていた。なのに好きだとは全く思えなかった。
「そんなに簡単に、専攻は変えられないんだよ」相田は今までにないくらい芯の通った声で言う。
「人間の寿命なんて短いのに、どうせ全部を追いきれないでしょ」壊してやろうと思った。
「それに一生をかけるような人間が、研究者になるんだよ」
 相田は笑う。握りしめていた私の指輪を見せた。
「大切な日は覚えておきたいだろ」
「いい。テストに出して笑いものにしたりするんでしょ」
「僕なら百点を取れる」
「とったって私のものじゃない」
 笑っていたら、相田が私の手を痛いくらいに握った。もう逃げられなんかしなくて、困って、結局もう一度笑った。相田はまっすぐに私を見て言った。
「それでも、とっておく」
 不思議と嫌な気持ちにならない。むしろ嬉しくさえあって、痛んだ。結局掃いて捨てたはずのものたちはかき集められて、山になって私の前に届けられてしまっている。もしもこれがなかったら、変わってしまう前の私は、何一つ存在しないのと同じになってしまう。
「やっぱ、前向きなよ」
 けれどこれも、紛れもなく本音だった。痛みが酷くてそれ以上は言えなかった。
 医師の足音が聞こえる。今までの溜め込んだ汚れを出すように濃縮されたものでベタつく私を、相田がはっきりとした手つきで抱きしめる。汗ばんだ手で左手を握られるともう駄目だった。貰ってしまったと思った。歴史好きなんか好きになって、後悔なんて出来なかった。


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