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高橋螢参郎さん

何でもいいから金と機会おくれ

性別 女性
将来の夢 二次元に入って箱崎星梨花ちゃんと結婚します
座右の銘 黙り虫、壁を破る

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さよならイツカくん

18/07/16 コンテスト(テーマ):第1回 時空モノガタリ短編文学賞 コメント:0件 高橋螢参郎 閲覧数:136

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. 世の中の面倒事をスポンジのように吸い込んですっかり重くなった身体に何とか鞭打って、仕事を終えた僕は今日もベッドに倒れ込んだ。
 ひどい時にはこのままシャワーを浴びる事もなく明日を迎えてしまう。明日もまた同じように仕事をして、半分気を失うように眠るのだろう。息継ぎするのに必死の、下手くそなクロールのようなこの日常があと三十余年続くかと考えるだけで、僕の胃はひどくよじれた。
 もうダメかも知れない。胡乱な頭で特急の踏切や屋上を思い浮かべるのが、最近の日課だった。肉体的にも精神的にも、いつ限界を迎えてもおかしくない状況だ。
 ……いや、もうとっくにどうにかなってしまっているらしかった。
「お帰りなさい、イツカくん」
 ベッドのへりに腰かける彼女を無視して、僕は何も言わずにごろりと壁に向き合った。今日もダメだった。まだ見える。ため息の音まで、全部耳に届いてしまっている。
「今日もやらないの?」
 返事の代わりに彼女へと枕を投げ付けたが、手ごたえはなかった。彼女には実体がないのだ。しかも、僕がこうして部屋にいる間しか出てこない。統合失調症なのか、それとも悪霊にでも憑りつかれたか。
 いや、後者はないだろう。その証拠に、僕は彼女の事をよく知っていた。
「ほら、少しでいいから進めよ?」
「……僕、本当に疲れてるんですよ。放っといてくれますか、ロコ先輩」
 僕はいよいよ観念して、その名前を呼んだ。松岡寛子、通称ロコ先輩。幻はそっくりそのまま、僕が大学時代所属していた文芸サークルの先輩の姿をしていた。今はどうしているのか知らないが……だからだろうか、彼女の姿は学生時代のあの頃のままだ。
「でもイツカくん、前にパソコン開いたの、いつだった?」
 ロコ先輩は焦れた口調のまま、部屋の隅で埃をかぶっている執筆用のノートPCを指差した。一週間、二週間。いつだったか僕にも思い出せない。
 ……それはそれとして、イツカくん、という彼女の呼び方は僕の本名と一字も合ってはいない。学生時代のあだ名だ。今ではもう、そう呼ぶ人間はいなくなったはずなのに。
 まだ何か言っているロコ先輩を黙殺して、僕は毛布を頭からひっかぶった。正直、悪霊に憑りつかれていた方が随分と救いがあった。

 ロコ先輩が見えるようになったのは、ちょうど三十歳になったその日からだった。
 彼女が目の前へ最初に現れた時、まだそんな青臭い幻想をどこかで引き摺っていたのかと、僕は何よりもまず自分自身に落胆した。イツカくん。そう呼ぶ声が呪詛のように聞こえた事を、はっきりと覚えている。
 イツカくん。それは僕がいつか小説で名を挙げる、と酒の席で連呼していたのをからかってサークルの誰かが付けたあだ名だ。何度聞いても寒気のする響きで、僕はこの名前が心底嫌いだったが、他ならぬロコ先輩がそう呼ぶのを訂正もできずそのままになってしまった。もう今更言うまでもないだろうけれど、僕はロコ先輩の事が好きだった。先輩には彼氏がいたので、最後まで想いを伝える事はできなかったが。
 当時の僕は自分とロコ先輩以外の物事は全て価値がないと思っている節すらあったから、何とか彼女にだけはイツカくんと呼ばせまいと学生時代、延いては卒業した後も足掻いてみせた。しかしこれと言って大きな成果は上げられないまま、僕は最終的に人よりも数年遅れて就職した。
 それでも最初のうちは、仕事をしながらでも書けるだろうとたかをくくっていた。それがこの体たらくだ。現実という大きな壁は、ずっと大学生のまま時を止めていた僕を容赦なく打ち据えた。
 でも、仕方のない話だ。若い頃に描いた夢なんて九割方がこんなものだろう。そう考えようとした矢先に先輩が現れたのだ。怒りや呆れを通り越して、笑う外なかった。
 もしかしたら本物の先輩に会いに行けば、幻は消えるんじゃないか。そう考えた事もあった。生身のロコ先輩と最後に会ったのは彼女の卒業式だ。その後十年ちょっと、先輩本人はもちろんの事、サークルにまつわる他の人々とも一切の連絡を絶っていた。それはもちろん、僕がいまだにイツカくんだったからだ。
 賞を取ったという報告すらもできない僕には、現実の彼女を笑顔にする材料がなかった。器量よしの彼女の事だ。きっと学生時代の彼氏か他の誰か、とにかく僕よりもずっと彼女を幸せにできるやつが傍に寄り添って幸せにやっているだろう。そんな姿を見たかったかと言われても、素直に首肯できるほど僕は人間ができていなかった。
 それもどれもこれも、全部向こう側へと置いてきたつもりだったのに。
 三十になっても僕はまだ大人になれないのか。
 僕は今更現れた幻の意味を、仕事中も暇さえあればずっと考えていた。家に帰ってもロコ先輩は相変わらず僕に書け、書けと促すばかりだった。

 ある日、珍しく仕事の都合で比較的早く帰れる事になった。
 軽く夕食だけ済ませると真っ直ぐ家に帰ったが、僕はそんな日もいつもと全く同じようにベッドへと倒れ込んだ。
見かねたロコ先輩が透明な手で身体を揺さぶったような気がしたが、僕は身じろぎひとつしなかった。
「イツカくん、折角早く帰れたんだから、書こうよ」
「書きます、あとで」
「本当?」
 僕は答えなかった。
「絶対才能あるんだからさ、書いたら凄い事になるよ。きっと」
 昔どこかで聞いたようなロコ先輩の言葉が、僕の頭の中に響き渡った。
 でもその声の主は、本当は一体誰なのだろうか? それが判らなかったから、答えられなかった。
 告白すると、僕は自分の才能の多寡が測れるほど小説と真摯に向き合ってはいなかったと思う。ネイティヴの日本語話者で、少しは本も読んできた。そんな特に面白みもない、どこにでもいる人間にでも言えそうなのは「小説を書きます」程度の事だった。動機なんて先輩の立ち上げたサークルを盛り上げたいという、精々その程度のものだったのだ。
 中身のないような恥ずかしい駄文を部誌に数だけ寄稿するだけでも、先輩は喜んでくれた。つまるところ、彼女の優しさにずっと甘えていたわけだ。
 そんな人間が先輩とどうこうなれるだなんて、考えるだけでもおこがましい。先輩が現れた理由なんて本当はひとつしかなかった。僕は今きっと、罰を受けているのだ。
 だって。
「しょうがないなあ、イツカくんは」
「ロコ先輩」
 僕はしばしの逡巡の後、口にした。
「僕の事、名前で呼んでくれないんですね」
 ロコ先輩の幻影は大学時代も僕に対してそうしていたであろう、少し困ったような顔で笑ってみせるのみだった。

 翌朝、僕は職場にしばらく休みますとだけ電話を入れた。現に症状は出ているのだ、あとは心療内科にでも駆け込めばどうとでも時間は作れるだろう。
 それからしばらく困らないだけの食料を一気に買い込むと、ノートPCの埃を払って執筆と食事、睡眠以外の一切の活動を止めた。
 僕が書いている間、先輩はベッドに腰かけてこちらを見守るだけで何も言わなかったが、それが何よりも心強く、恐ろしかった。待ち望んでいたイツカという希望は、もう二度と来ない。この小説を書き上げたら、たとえどんな結果であろうと本物のロコ先輩に会いに行こう。どんな自分でも、正面から向き合った僕なのだから。
 時たま寝食を忘れるほどに、僕は執筆に熱中した。多分、意味のない事にここまで時間を割いて没頭できるチャンスはこの人生で最後だろう。そんな考えが脳裏を過ぎる度、僕の筆は加速した。のめり込み文字数が増えれば増えるほど、ロコ先輩の口数は少なくなっていった。
 そして第一稿の最後の読点を打ち込んだ朝、彼女はさよならも言わずに僕の前から姿を消した。
 それを確認してから、僕は机に倒れ伏して文字通り三日三晩眠った。

 およそ九ヶ月後。身なりを整えた僕は一冊の本を手に、約束もせず彼女の実家へと向かった。会うにはこうするしかなかったのだ。
 時は流れ、当然のように彼女の電話番号は別の人間のものになっていた。少なからずショックだったし、そんな程度の繋がりの人間がいきなりお邪魔して不審に思われないか正直不安だったけれど、今日は最悪本だけでも届けて貰うつもりで来ていた。共通の知人を一切持とうとしなかったのを、僕は人生で初めて悔やんだ。
 ちなみに本とは言ったが、僕の書いた小説ではない。僕の名前と、小説のタイトルの入った新人賞の結果発表の載っている雑誌だ。佳作。土産話としては何とも中途半端な結末だったが、こんなものだろう。担当編集者もついたし、出版の可能性もゼロではないとの事だからまあ良しとしよう。
 心臓の震えをそのまま指先へと伝えながら、僕は恐る恐る呼び鈴を鳴らした。
 どんな結末が待ち受けていたとしても、構わないはずだった。

 蝉時雨が降り注ぐ残暑の中、僕は遂にロコ先輩と対面した。
 ご両親か、それとも僕と同じように先輩を好きだった誰かが供えたのか。彼女の眠る墓にはまだ瑞々しい花が咲き誇っていた。そんな先客の花を全て除けてから、僕は花立を自分の花で埋め直し、雑誌を広げたまま立てかけた。こんな事をしても、何にもならなかった。
 ロコ先輩は五年ほど前、不慮の事故により亡くなったとの事だった。
 彼女のご両親は僕の事は知らなかったが、イツカくんの話は生前聞かされていたと教えてくれた。手のかかる弟のように思われていたのだという。確かにその通りでしたとだけ言い残し、僕は先輩のお宅を辞した。
 イツカ書くだろう。
 イツカ会えるだろう。
 そんな実態のない希望に寄りかかっているうちに、ロコ先輩は行ってしまった。彼女にとって、僕は永久にイツカくんのままなのだ。
 抜けるような青空の下、イツカくんはいつまでも立ち尽くしていた。


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