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しのき美緒さん

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エルピス――最後に残るもの――

18/07/05 コンテスト(テーマ):第1回 時空モノガタリ短編文学賞 コメント:4件 しのき美緒 閲覧数:501

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 高山一樹は走っていた。
ニコライ堂の前の坂を大きなストライドで息を一つも乱さずに上り、それから聖橋口改札の前を左へ折れた。そのまま電車に乗っても良かったのだが、学生時代から馴染んだこの街を味わっておきたかったのである。丸善では学生たちが静かに立ち読みをしている。その向かいには老舗画材店が変わらずにあった。一階入り口付近には最近流行のマスキングテープや、輸入品の美しいカード類がディスプレイされている。一樹は足を止めた。
 がらんとした店内に小学生くらいの少年がいた。少年は大きな布製の手提げバッグを持っている。今は平日の昼間なのである。一樹は妙な心持ちがして店内に一歩を踏み入れた。少年は水彩絵の具が積まれている棚の前でじっとしている。そのくせ彼の両の眼はきょときょとと落ち着きなくあたりを見回している。レジにいる店員はよく訓練された穏やかな表情を保ちながら、ちらりちらりと少年に目をやっている。少年は手提げを少しだけ拡げた。一樹は静かに歩を進める。少年は手提げをまた少しだけ拡げた。それからおずおずと三十六色の透明水彩絵の具の赤い箱に小さな手をかけた。一樹は横からさっと手を出して、その赤い箱を小さな手から奪い取った。
 立ち竦む少年に、一樹は振り向くと、

「来いよ、買ってやる」

そう言うや、少年の頭をくしゃくしゃと撫で回し、細く華奢な肩を強く抱いて引きずるようにレジへと向かった。店員は何も見ていなかったように淡々とレジを打ち、高くはないが安くもない値段を告げ、一樹はそれを支払うと、少年の肩を抱いたまま店の外に出た。
 日の光の下で見る少年はまだ本当に幼い顔立ちをしていて、切れ長の瞳には怯えが滲んでいた。一樹は笑って、

「絵が好きなのか」

と尋ねた。少年はこくりと頷いた。

「学校は? 今日は休みなの?」

と重ねて聞くと、少年はかぶりをふった。

「……ってない」

そう言っておずおずと一樹を見上げた。

「ふうん。学校嫌いなのか?」

少年は頷いた。一樹は次に言うべき言葉を探した。

「まあ行きたくなったら行けよ。学校は行っておいたほうがいい」

少年は曖昧に頷いた。一樹は笑った。

「それで描いた絵、いつかみせてよ」

一樹は買ってやった絵の具が収まった布製のバッグを指さした。少年は嬉しそうに、はにかんだ様子で大きく頷いた。一樹はその様子が可愛らしくてまた微笑んだ。そうして手をつないで駿河台側の改札まで歩いた。少年の家は市ヶ谷だという。

「俺はまだ用があるから。ここでバイバイでいいか? ひとりで来たんだから、ひとりで帰れるな。電車賃持ってるか」

少年はまた頷いた。一樹は少年に手を振るとそのまま横断歩道を大股で跳ねるように渡っていった。少年は絵の具が入ったバッグを胸の前に大切そうに抱えて、一樹の後ろ姿が雑踏に飲み込まれて見えなくなるまで目で追い続けた。


 明治大学の裏手にある公園のベンチに座り、一樹は医者との会話を思い返していた。

「本当に、間違いなく死ぬのでしょうか」

「おそらくは」

医師は淡々と答えた。
 一年、それが一樹に残された時間だった。 
 一樹は自分の左手首に右の人差し指、中指、薬指を置く。拍動は力強く規則的である。この拍動が一年先には止まるのである。
彼は自分の来し方を振り返った。そこそこの容姿に恵まれ、そこそこ出来がよかった彼はそこそこの人生を歩んできた。振り落とされていく同僚を後目に三十歳の若さで課長に昇進した。金もそこそこ貯まっていた。自分が描いていた人生設計では結婚を機にマンションか一戸建てを買う予定だった。
 自分はこの先何をしたらよいのだろうか。一年でできることを考えてみた。そして自分にはやりたいことはないことに気づいた。全て自分の意志で選択をしてきたように思っていたが、実際には親の意志であり、周囲の意志であった。一樹は「自分探し」のために退職していく人間を内心軽蔑していたが、宣告から一時間ほどで、自分はやりたいことも探すものも持たない人間であることに気付かされた。これほどに三十年が空疎であったことに一樹は泣きたくなった。自分が死んだら、いったい誰が自分を思い出してくれるのか、と考えると恐怖に近い気持ちに襲われた。そして切実に誰かの心に残ること、感謝されることを願った。


 一週間後、一樹はホームページを立ち上げた。たった一ページ、青一色の画面。タイトルは『あなたの夢、叶えます。先着五名様』。右下にはメールフォームが立ち上がるボタンが付いているだけである。こんなホームページで集客ができるはずがない、と一樹自身も高をくくっていた。しかし――客は来た。

 一人目はOL。顔が嫌いだ、という理由で男に振られたので顔を変えて男を見返すための資金。
 最初からこれでは先が思いやられる、と一樹は小さく溜息を吐いたが、約束は約束である。こんな怪しげなホームページをみて申し込む、その蛮勇を善しとした。
 二人目は借金を背負った若い男。督促の電話や手紙から逃れて人生をやり直すための資金。
 三人目は滅びつつある地域固有の植生を蘇らせたいというボランティア団体。土壌改良のための資金。
 四人目は銀行から見放された個人商店主。古くからのベーカリーショップだが機械を新しくして若い客の獲得をしたいという。その新たな設備投資のための資金。
 先着五名様としたが、期限内にはこの四名しか集まらなかった。一樹は少し考え、五人目を自分にした。
 積極的な治療は行わないこと、痛みや苦しみからは解放されたいこと、葬儀は行わず、墓には入れず散骨すること、この希望を故郷の両親に告げた。電話の向こうでは母が取り乱し、替わって出た父はただ黙って聞いた後で、一言「わかった」とだけ言った。「ありがとう。ご迷惑をおかけします」と一樹は答えた。暫くの沈黙の後、電話は静かに切れた。一樹は物言わなくなった四角い端末を見つめていた。すると唐突に一樹の脳裏に青い山と透明な海に抱かれた故郷の美しい風景が甦った。そして、いずれは海に溶けた自分が、故郷の大地のみならず全ての生きとし生けるものの母になることを想像し、ささやかな満足を覚えた。


 宣告の日からきっちり一年後、高山一樹は死んだ。
 ホスピスで何の苦痛もなく、両親の涙に見送られて死んだ。しかし、一樹はその愛と哀しみに溢れた情景を認知することなく死んだ。
 彼の若すぎる死を多くの友人・知人たちは悼んだが、ひと月経つ頃には口の端に上らなくなり、四十九日の頃には早いものだ、と語られ、百箇日がすぎる頃には概ね忘れられていた。
 一方、整形手術に成功した女はその美貌で数多の男に言い寄られたが、心を寄せた男に手ひどく裏切られ、アルコールに溺れて精神の均衡を失った。
借金を返した男は友人から誘われたギャンブルが引き金となり、再び四方八方から金を借りた。借金は膨らみ、二進も三進も行かなくなって男はどこへともなく姿を消した。
 地域固有の植生を再生するプロジェクトは、件の団体が持ち込んだ土の中に外来種の種が混じっていたため、結局は入れた土を全て剥ぎ取ることになり徒労に終わった。
 ベーカリーの店主は設備投資を行ったが、客足は一向に伸びず店を畳んだ。客が来ないのは設備のせいではなく、自分の技量が拙いためだということにはついぞ店主は気づかなかった。
 絵の具を万引きしかけた少年は相変わらず学校へは行かず、日がな絵を描いて過ごした。母親は分不相応な絵の具を買ってきた息子に不審の目を向けたが、何も尋ねなかった。日々かつかつの生活は彼女から思考を奪い去っていた。
 後生を託された一樹の両親は苦痛のない消極的治療と穏やかなホスピスでの生活を彼に提供するに吝かではなかったが、葬儀も行わず、墓も持たないことに賛同するにはふたりとも些か旧弊な人物であった。結句、彼は華やかに友人知人親戚一同の嗚咽に送られ、随分と量の多い、真っ白な骨片となって美しい壺に収まった。そして高山家の代々の墓のなかにひっそりと埋葬された。


 十年後、一躍画壇の寵児となった若者がいた。学校には行っていない、という彼の絵は温かい色彩に満ち溢れ、多くの人を魅了した。有名美術館がこぞって彼の絵を買い上げた。
 彼は画壇から飛び出し、マスコミ取材も講演もできるかぎり誠実に受けた。そしていつも必ず決まって或る話をするのである。――曰く、

「見知らぬお兄さんから絵の具を買ってもらったことがあったんです。本当なんですよ、あの日、あの出会いがなければ僕は今頃は……そうですね、何をしていたんでしょう。ろくなことになっていなかった。いつかお会いできたらって思うんです」

と、豊かな表情と巧みな話術で皆を笑わせた。
 彼、即ちかつての少年は、この話をする度に、背がスラリと高く如何にも怜悧な目をした青年の、ごつごつした骨張った手の大きさと温かさを鮮やかに思い出すのであった。 



 


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このストーリーに関するコメント

18/07/05 村野史枝

他人のなかに自分を遺すという希望に満ちた、力強い掌編です。

心に染みました。

18/07/06 クナリ

数奇な運命の交差ですね……。
連綿と続く生と死の中、死の後も生命の軌跡は残されていくのですね。

18/07/07 しのき美緒

>村野史枝様
拙作の閲覧とコメントありがとうございます。
人間、きっと知らないうちに誰かの心の中に希望を残しているのだと信じています。

18/07/07 しのき美緒

>クナリ様
拙作の閲覧、コメントありがとうございます。
人と人は、血(縁)以外でも連綿と深く繋がっていくのだ、そんな気持ちで書きました。

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