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氷室 エヌさん

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幸福は剃刀の形をしていない

18/07/01 コンテスト(テーマ):第1回 時空モノガタリ短編文学賞 コメント:0件 氷室 エヌ 閲覧数:262

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 なんだかよく分からないんだけど、突然どうしようもなく幸せになりたくなる時がある。そうでなければ、もう死んでしまいたいと思う瞬間がある。
 例えば、行きずりの女と一夜を共にした後一人で目覚めてしまった朝とか。夜勤に向かうためにコンビニでエナジードリンクを選んでいる時とか。留守電に録音されていた、母親の「たまには帰ってこい」という催促を聞いてしまった昼間とか。怖い夢を見て汗びっしょりのまま目が覚めてしまった早朝とか。
「……あ。灯油、切れてるんだった」
 例えば、電気の点いていない真っ暗な自室に帰ってきた深夜とか。
 六畳一間しかないアパートの部屋で一人、呟く。ブックオフで購入した漫画が、まるで儀式でもするかのように万年床を取り囲んでいる部屋。
 ストーブの灯油が切れていたので、俺はダウンジャケットを着たまま煎餅布団に寝そべっていた。肉体労働をしてきた身体には辛い仕打ちだ。
 寒い。ずび、と鼻を啜る。完全に風邪引いた。看病してくれる彼女なんかなんて、いるわけがない。
 悪循環だ。彼女がいないからこんな生活になるわけで、こんな生活だから彼女が出来なくなる。社会的地位が高い人間だから恋人が出来るし、恋人が出来ることで生活が潤う。そういうものだ。生まれつきに振り分けられた地位だとか身分だとかのカードが、人生の最後までをきっちりと決める。
 だから俺の人生なんてたかがが知れていた。ひひ、と卑屈な笑いが口から漏れる、はずだった。寒さにカチカチと歯が鳴ってしまって、巧く笑うことさえ出来ない。こんな家で生きていたら、死ぬのは時間の問題だろう。電気も先週止められたし。
 もうそれで良いと思った。
 幸せになりたいのと同時に、常にもう死んでしまいたいとも思っている。幸せになんて絶対になれないんだから、ロープを用意して練炭を焚いて風呂場で手首を切ってしまおうと。漠然とした自殺願望に苛まれながら、ギリギリのところで生きている。こんな人生なら、最低の底辺にまで落ち込んでしまう前に、今のうちに死んでしまうのもアリだな、と。
 ロープは家にない。練炭も、薬も。じゃあ、剃刀なら。
 亡霊のようにゆらりと立ち上がる。剃刀くらいあるはずだ。洗面所の棚をひっくり返すと、一本だけ剃刀が転がり出てきた。拾い上げたそれをぎゅっと握る。さて、どこをどうしようか。一番よく聞くのは、やっぱり手首か。
 やらなくては。カチカチと歯が間抜けな音を立てる。寒さのせいだ。がたがたと足が震える、息があがっている。寒さのせいだと思いたかった。
 ぎゅうっといっそう強く剃刀を握った瞬間――ピンポーン、なんて、ひどく平和な音をたてて。
「いるんでしょ? 直澄君、あけてよ」
 女の声が、俺の名を呼んだ。
 訳が分からなくて暫く呆けていると、痺れを切らしたのかドンドンと強めにドアをノックする音が聞こえた。近所迷惑、退出願い、なんて言葉が立て続けに脳内で警告色になって点滅する。今死のうとしていたというのに、俺はまだそんなことを危惧しているのか。間抜けだ。
「わ、分かったから。今、開けるから」
 こちらからの声は聞こえていないはずなのにそんなことを呟きながら、俺は慌てて風呂場を出て、玄関のドアを開けた。
「あ、やっと出た。ごめんね、夜分遅くに」
 女は。言葉とは裏腹に全く悪びれもしない顔で、そんなことを言った。
「え……何?」
 と、思わず呟く。来てあげたんだからもっと良い顔しなさいよ。眉根を寄せた顔でそんなことを言われて、俺は口を噤む。ずかずかと部屋に上がり込む女の背中を見送って、彼女が万年床の煎餅布団のそばに腰を下ろしたのを見てから、俺はやっと玄関のドアを閉めた。
 ――そいつは、行きずりの女の一人だった、はずだ。その甘やかな白い肌と、憂いを湛えた瞳をよく覚えている。そのまとめあげた艶やかな黒髪が、この汚い部屋とあまりにもミスマッチで、なんだか申し訳なくなる。確かOLだったっけ、丸の内あたりのいいとこの、とぼんやりを思い出した。
「うわ、何、剃刀なんか持って……物騒な」
「ああ……いや、何でも」
 未だ手にしていた剃刀について指摘され、俺はそれを台所のシンクに捨て置いた。がらぁん、なんて音が部屋に響く。
「何、しに来たの」
「遊びに来た」
 彼女は至極真面目な顔でそう答えた。いや、どう見てもそんな時間じゃない。そろそろ時計の針は深夜零時を回るところだった。
「たまたま近くに通りかかったから。あと、どうせ碌なモン食べてないだろうから」
「……へえ」
 平静を装って、彼女の横に腰を下ろした。女はコートを脱がなかった。賢明な判断だと思った。女は持っていたビニール袋から弁当取り出し、こちらに差し出す。
「デパ地下のおべんとだけど、結構美味しいんだよ、これ」
「……なんか、高そうだな」
 馬鹿みたいな感想しか出てこない自分が嫌だったが、彼女は「ちょっとね。奮発してあげたのです」と少し得意げになる。
 素直にありがたかった。幕の内弁当を見ていたら、腹の虫がぐうと情けない鳴き声をあげた。俺は割り箸を口で割って、かき込むように飯を食べ始める。
「うわー、何この台所。やばいんじゃないの」
 いつの間にやら部屋の中を物色し始めていた女が、台所のシンクあたりを見ながら悲鳴を上げる。
「……いや、暫く使ってないから」
「うわ。汚部屋じゃん」
「汚部屋じゃねーよ」
「限りなく汚部屋だよ、ここは」
 女はぐるりと俺の部屋を見回して、くすくすと微笑む。なんでちょっと嬉しそうなんだ。俺は卵焼きを咀嚼する。あ、明太子入ってるやつだ。旨い。
 暫く部屋を観察してから、女は再び俺の側に座り込んだ。彼女は、弁当を食う俺の姿をまじまじ観察し始めた。
「……食いづらいんだけど」
「美味しいでしょ」
「まあ」白飯を口に運びながら短く答える。
「……なあ、アンタはなんで俺のとこに来たんだ?」
「え、ダメだった? もしかして、ただの一夜の過ちのつもりだった?」
 きょとんとした顔で答える女に、まさかその通りですと言うわけにもいかない。俺は唸るようにして答え、先を促した。
「……私、あの日直澄君に会わなかったら死のうと思ってたんだ」
 噎せる。気管に米粒が入った。女は「あーやだもう」とかなんとか言って、ビニール袋からペットボトルのお茶を取り出す。
「はい飲んで。……うん、それで、でも直澄君に会えたから死ぬのやめにしたの」
「なんで? 重いわ」
「ひどくない?」
 と、女はにこにこ笑っていた。なんで笑うんだ。なんで笑えるんだ。
 女はそれ以降、その話をしなかった。俺が飯を食うのを微笑を浮かべて眺めては「美味しい?」「美味しいでしょ」としつこく繰り返すだけで。
 なんで笑っていられるんだろう、と思った。
 人それぞれ悩みがある。なんてのは道徳の教科書にも載ってないような陳腐な言葉だけど、やっぱりこんな小綺麗なねーちゃんにも死にたくなるような瞬間があるんだなあと俺は思った。なんだか妙に感慨深かった。
 俺はそもそもこの女とどこで知り合ったんだっけ、と記憶を呼び戻そうとするがうまくいかない。恐らく酒が入っていたのだろう。そんな邂逅を、彼女が心のより所にしているのだとしたら、俺はなんだかこんな高そうな弁当なんかをうまうまと食えないような気がしてきた。空腹には変えられないが。
「よく食べるねえ、好き嫌いないんだね」
 子供に言うみたいな声色で、女はそんな風にふざけた。汚部屋にいる彼女はあまりにも不釣り合いで、なんだか申し訳なくなった。
「お前は俺のこと好きなのか」
 棒読みの言葉に、女は微笑を深める。
「急になに?」
「いや、気になって」
「うん、好きだよ。好きじゃなきゃ来ないよ」
 それは。その「好き」は。例えばお前が俺を、窮地を救ってくれたヒーローのように思ってしまっているだけなんじゃないのか、と。言えなかった。女は鼻歌なんか歌いながら、言葉を続ける。
「直澄君はね、私の天使だよ」
「天使ぃ?」
 久しぶりに聞いたそんな単語に、思わず苦笑が漏れた。女は「あ、信じてないね」と不満そうに呟き、口を開く。
「あのね、私は本当に死にそうだったんだよ。慣れない会社で色々あってさ、それで自暴自棄になって飲み歩いてる時にボロボロの君と出会った」
 やっぱ酒か。俺はますます女に謝りたいような気持ちになった。
「君は私に色んなことを話して聞かせてくれたよ。もしかしたらもう覚えてないのかもしれないけど、それで私は救われたんだよ」
 実際、覚えていなかった。自分が彼女に何を言ったのか。どうしようもない駄洒落だったのか、セクハラ紛いのおべんちゃらだったのか、それとも自分の不幸話だったのか。でもそんなことはどうでもいいような気がした。
 ――なあ。こんな俺でも、誰かの天使になれるのか。
「なあ、アンタ」
 気付けば弁当はすっかり空になっていた。腹が満たされたからか、先程よりは寒くなかった。女が首を傾げる。
「何?」
 なんだかよく分からないんだけど、突然どうしようもなく幸せになりたくなる時がある。求めているのは多分、富とか権力とか名誉とかじゃなくて、俺一人が抱えていられる分だけのありきたりな幸福。
「名前、何だっけ?」
「……は? 今更?」
 女が思いっきり嫌そうな顔をするので、俺は笑った。幸福は、剃刀なんかじゃなくて、小綺麗なOLの姿をしているのだろう。きっとそう、こいつみたいな。


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