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れいぃさん

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凪子さん。

18/06/27 コンテスト(テーマ):第1回 時空モノガタリ短編文学賞 コメント:0件 れいぃ 閲覧数:422

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数学のできる女の子は、できない子より少し繊細で美しい。
数の世界に踏み込んでいくのは、無機質なガラスをかきわけていくみたいだもの。
 ツユカは、背中で揺れる凪子さんの黒い髪を見るたびにそういうことを考える。数学が苦手な子がほとんどのクラスの中で、難しい数式をすらすらとける凪子さんの存在は特別なものに思えた。ツユカは現代社会や政経は得意だけど、数学となるとさっぱりだから、余計に凪子さんをまぶしい目で見てしまう。
 据野ツユカは、凪子さんになりたい、と思いながら自分の緩やかなウェーブ入りのショートヘアの先を弄んだ。
 黒板から自分の席へ戻る凪子さんと目を合わせて見たいけれど、勇気が出ない。
 高貴な人の顔を直視するのはいけないことだ、という不思議な感情が胸の底から湧いてくる。
 自分にできないことができる、というただそれだけで凪子さんはツユカの中で最も尊い人物になる。ツユカは走るのも遅かったし、絵を描くのも下手なので、「自分にできないことをできる人」はこのクラスにたくさんいるのだが、他の誰に対してもこういう気持ちにはならない。
 凪子さんだけだ。
 つまりわたしは一途なのかもしれない、とふと気づいてツユカは自分に感心する。雑貨屋で可愛いマスキングテープを見つけたら、一つに決められずにぜんぶ買ってしまうほうだから、一途さなんかとは無縁だと思っていたのだ。
 凪子さんの存在は、ツユカに、「自分では気づけなかった自分」を発見させてくれる。凪子さんを通して自身をより深く愛していくツユカは、結局はナルシストなのかもしれなかったが、誰もとがめないのでそれでよかった。


 臆病者のツユカにとって、凪子さんと話すことは、岩に刺さった勇者の証の剣を引き抜くことにも等しい。抜いてしまったらもう、勇者として勇敢にドラゴンと戦う未来を引き受けるしかなくなりそうなので、ツユカはずっと岩の前で逡巡してしまう。
 このクラスに入れられてもう二か月が経とうとしているのに、未だに凪子さんとひとことも会話していないのは自分でも不思議だったが、クラスメイトの一人と話さなくても成り立ってしまうような高校生活なのは間違いなかった。中学のころと違って、人と人の間に拳一個の距離があるような気がする。もう二年生だし、受験に向けて自分のことだけに集中している子もいて、休み時間も誰かに干渉されることはなかった。
 ツユカはいつもピンクのリップクリームを塗っていたから、中学のころは不良っぽい子たちに机を蹴られたりしていたけど、今はそれもない。中高一貫の女子校だから、みんなもう化粧程度で騒ぐのは馬鹿らしく思い始めているのだろう。
 凪子さんはというと、透明なリップクリームを塗って、すっぴんのままで堂々と微笑んでいた。朝から薄くファンデーションを塗っているツユカは昼休みに化粧直しするけれど、そこで凪子さんといっしょになったことは一度もない。
 トイレに行くときはいつも一人のツユカは、もし凪子さんと鏡の前でいっしょになったら、とときどきシミュレーションするけど、そんなラッキーなことが起こったためしはなかった。ツユカにはよくしゃべる特定の友達もいないので、誰かから凪子さんの情報を得る機会もない。知りたい、と思うことの答えが与えられないのはもどかしくて、この情報化社会に生きているのに、と恨めしく思うけれど、情報弱者は自分なのでしかたがない。
 ツユカは、よく知らない凪子さんの姿を、想像でせっせと埋め合わせた。
 まず、凪子さんは一人っ子もしくは年の離れた兄がいて、インテリアが美しい家に住んでいる。もちろん高級住宅街の一軒家で、ガラス張りの部屋なんかもあったりして、植物が飾ってあるイメージ。両親は忙しくてあまり帰ってこないけれど、娘の教育には力を入れている。上流階級という言葉がぴったりはまるような生活様式。美術館に行ったり、観劇やクラシックのコンサート、オペラなんかが日常にある。アイドルのコンサートやアニメ映画なんかには行ったことがなさそう。凪子さんの部屋には大きなベッドがあって、クローゼットがあって、勉強しやすいように整えられている。本棚には洋書、地球儀に百科事典、そしてもちろん数学の参考書。女の子だからピンク、ということはなくて、白とかネイビーみたいな上品な色で統一されている。カーテンも落ち着いた色合いで、夏場はレエス。ゴキブリなんか出たことは一度もない。
 ツユカ自身は懸命に考えたつもりだったけれど、浮かんでくる像はあまりにありきたりなものだった。意外性がなさすぎて、凪子さんがつまらない人間みたいだ。
 どうせぜんぶ想像なのだから、もっと、どきっとするような要素が欲しい。凪子さんは実は前世が殺人鬼だったとか、魔法を使うために恐ろしい悪魔と契約している、とか。いろいろ考えてみるけど、どれもいまいちぴしりとはまらない。


 妄想の中の凪子さんを完成させられないから、ツユカはいくらでも凪子さんで遊ぶことができた。目の前に少し離れて存在している本物の凪子さん、ツユカの頭の中の凪子さん。どちらが本物だったか、ときどき分からなくなる。
 本物の凪子さんは今、教科書の難しい問題を当てられて、黒板に答えを書いているところだ。白いチョークの粉がぱらぱら降って、凪子さんの制服を汚す。その様子をツユカはぼんやりと見ている。
「正解」
 先生が丸をつけて、凪子さんの出した答えが正しいことをみんなに伝える。ツユカのノートに書かれた数字は、残念ながら一桁違っていた。やっぱり、この世界は難しい。


 想像の中でなら、凪子さんのつやっとした髪を三つ編みにさせてほしいと頼むことだってできるツユカだけど、現実にはやっぱり赤の他人のままだ。せめて「たまに話すクラスメイト」くらいにはなりたいのに、まだ一音も交換できていない。どんな話題なら凪子さんに近づけるだろう。ツユカは毎日、凪子さんに話しかける言葉を考えて終わる。
(うちの庭のあやめに)
 雨の日は露が乗って可愛いの。ツユカって名前でよかったって思う。
 そういう、ちょっとロマンティックな話題で始めたかったのに、ツユカが初めて凪子さんと話したのは、ロマンのかけらもない一言だった。
「消しゴム、転がってきたよ」
 休み時間に物思いにふけっていたら、知らないうちに机の上の消しゴムを床に突き落としてしまっていたらしい。
 他でもない凪子さんが白い指で真っ白い消しゴムを摘んで、ツユカのところに持ってきてくれた。長方形の消しゴムの六面のうち、凪子さんの指に触れる幸福な二面! ツユカは「ありがとう」という前に思わずその面を優しく撫でる。
「だいじなものなんだね」
 何てことはない、シンプルなスリーブに入った消しゴムなのに、凪子さんは微笑んでいる。
「……ありがとう」
 ツユカはかなり遅れて言った。
 もっと話したい。
 でも、話題がない。何を話せばいい?
 メソポタミア文明のこと?
 三権分立のこと?
 それともまさか、因数分解について?
「どうかした?」
 黙り込むツユカを、凪子さんは覗きこんでくる。身長、たぶん同じくらいだ。背の順で並んだら前後になるかもしれない。残念ながら今のクラスでは出席番号順だけど。
「あの」
 ツユカは懸命に凪子さんを引きとめる言葉を探す。もうすぐ休み時間が終わる。この次の授業は音楽で、アルトリコーダーを吹く。凪子さんの透明リップを塗った口唇に触れるリコーダーの白い部分。
「お昼、リコーダー食べませんか?」
 余計な想像のせいで、言いたかったことがおかしくなってしまった。
 凪子さんは一瞬きょとんとしたものの、ツユカの暗号を解読してくれた。
「お弁当持ってきたから。いっしょに食べよう」
 そのときちょうどチャイムが鳴って、真っ赤になりすぎたツユカの顔は、凪子さんに見られなくてすんだ。


「じゃあ、ちくわがいちばん好きなんですね」
 意外。ちくわにマヨネーズが好物な凪子さん。お弁当箱が、弟のものだという戦隊ヒーローもの。マヨネーズの油でてらっとした口唇で、凪子さんは笑う。
「同い年なのに、何で敬語なの」
 そういえば呼び方も決めていない。
「わたしは、これからも凪子さんで……」
「ダメ。呼び捨てがいい」
「ええ……じゃあ、わたしも」
 お互い律儀だから、最初の一回は練習で呼ぶ。
「凪子」
「ツユカ」
 本物の凪子さんの声は、想像よりずっとくすぐったい。


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