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四島トイさん

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遠くの近く

18/05/28 コンテスト(テーマ):第156回 時空モノガタリ文学賞 【 浮遊 】 コメント:0件 四島トイ 閲覧数:174

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「保浦先生。テレビやってますよ」
 事務室からの声に応えず、茜色の空を見上げていた。
 夕暮れは、雲の輪郭を切り取り、質量を感じさせる白色が黄金色に縁取られている。見上げる遥か先に、遠い世界が突き抜けていく。
 不意に何かが光った。
 金星、と叫ぶ少女の声が聞こえた気がして、あの日と同じように保浦は耳を澄ませた。


 砂浜に少年少女が座っていた。その背中を確かめて彼は車を降り、階段に腰を降ろす。少女が指差す先に、欠片のような輝きと白い月が浮いていた。宵の明星だっけ、と少年が首を傾げている。
「そ。地球から一億五千万キロメートル」
「ルリは頭良い」
「もっちーだって、やればできるじゃん」
「苦手なんだ」
「目標がないからよ」
「例えば」
「宇宙飛行士とか」
「なる理由がない」
 砂浜を撫でる夕凪。他愛のない会話に少年少女が笑い合う。
「あれは飛行機だよ。ここの空は通り道だから」
 保浦の声に、彼らが反射のように振り向いた。
「高度一万メートル。ちなみに月までは三十八万キロメートル。意外と近いでしょ」
 そう続ける彼を警戒するように立ち上がる。保浦先生、と少女が気まずそうに俯く。
「やだなあ。そんなに睨まないでよ倉持君。無知に引け目を感じることなんてないんだぜ。君らの世代はネットもあるし。すぐに検索できるし。暗記なんて前時代的だよな。月にだって住める時代に」
「……どうでもいいです。そんなこと」
「じゃあ、僕が君らを追っかけるのが気に入らないのかい。仕方ないだろ。君ら中学生だし」
 彼らを諭すという己の役割を理解するほどに、保浦は苛立ちが強くなるのを感じた。
「親御さんを殴ってルリちゃんを病院から連れ出しても、電車で数駅程度をぐるぐるすることしかできない。僕らも簡単に追跡できる。おかげで発作が起きても、君はすぐに助けを求められる」
「そんなこと頼んでないっ」
 食いしばった歯の間から漏れた声は、少年の感じる悲痛が音になったようだった。
 もっちー、という小さな声が波音の隙間に聞こえた。
「……やっぱり病院帰るよ私。ごめん」
 何言ってんだよ、という声に焦燥が滲む。必死に説得を試みる言葉の数々が、途切れることを恐れて震えた。
 でもね、という少女の声も震えていた。
「もう、お薬が……」
 不意に彼女の足元がふわりと浮かび上がる。
 少年の顔から一気に血の気が引く。
 発作だった。
 必死に彼女の腕にしがみつく彼を、保浦は真っ直ぐに見つめた。
「……浮遊病って疾患はさ、突然人間が浮くって事実ぐらいしかわかってないんだ」
 煙草の火を揉み消す。
「原因不明。治療法は未確立。とにかく浮く。薬剤は症状を緩和させるけど、服薬は一生続く。金もかかる」
 淡々とした声。砂を踏む足音。
 腰を落として、少年は必死に少女の手を引く。彼女の体が逆さ吊りのようになって、見る見るうちに掌が汗ばんでいく。泣き出しそうな彼らの顔に、保浦は逃避行の終わりを悟った。
「……いつか何とか、なんて他人任せに楽観視できるはずがない。倉持君はさ、そういう、患者が社会的に負うハンデの大きさがわかって、逃避行やってんだよね。浮ついた理想論とか、ガキの青春じゃないんだろ。そんなこと聞くためにストーキングしてるんじゃないんだけどさ」
 少女をぐっと引き寄せて腕に注射する。彼女の体が次第に降下して砂浜に着地した。泣きじゃくりながら、ごめんなさい、と繰り返す。
 どさりと尻餅をついた少年の瞳からも、ボロボロと涙が声もなく溢れていた。
 駆け寄る医療スタッフに指示を出すと、保浦は少年の腕を無遠慮に掴んで引き起こした。
「結局、悲劇の主人公に浮かれて終わりかい」
 少年の顔はぐしゃぐしゃに歪んだ。何度も咳き込みながら、ちくしょう、と繰り返す。
「……そんなんじゃない。理想なんかじゃ、ない」
 だといいね、と保浦は努めて短く応じた。
「なら、もっと遠くまで行ってみせてくれよ。あの子と一緒に」
 ちくしょう、と咽ぶ彼を夕闇が少しずつ隠していった。


「……まさか月まで連れて行くとはねえ」
 月面居住実験のニュースが事務室のテレビから流れていた。倉持という名の宇宙飛行士のインタビューが続いている。曰く、婚約者は浮遊病の医学論文が評価され、今回、無重力環境下での被験者として共に暮らしているという。
「二人とも遠くに行っちゃいましたね」
 当時から勤務するスタッフの一人が感慨深げに呟く。
「たかが三十八万キロだけど」
「たかが、の使い方おかしいですよ」
「金星よりは近いし」
「だからって、二十年前みたいに追いかけるのはごめんですよ」
 医療分野での研究成果が期待されます、というお行儀の良いナレーションの背景に、笑顔で手を振る男女の姿が映り込んだのを見届けて、保浦は「同感だよ」と言って微笑んだ。


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