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野々小花さん

野々小花(ののしょうか)です。文化教室に通って、書く勉強をしています。

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午前四時の帰り道

18/05/28 コンテスト(テーマ):第156回 時空モノガタリ文学賞 【 浮遊 】 コメント:0件 野々小花 閲覧数:215

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 午後六時の世界はオレンジ色に染まっている。僕はいつものように駅前のロータリーでバスを待っている。サラリーマンや制服を着た人々が駅の出口から、まるで吐き出されるようにして出て来るのが見えた。一日を終えた顔には、充実と安堵と疲労が綯い交ぜになっている。
 バスは、バイパスを降りると田園風景のなかを走る。しばらくすると突如として灰色の工場群が姿を現す。その中に吸い込まれていくようにして僕の乗ったバスは入っていく。同じ作業着を着た大勢の人間がここで働いている。誰も言葉を発さない。聞こえるのは金属と金属が触れ合う音だけだ。ここには、感情のある人間なんて、生きている人間なんてひとりもいないのではないかと錯覚する。自分も含めて感情を失くしたロボットのようだと思う。でも、だから僕はかろうじて、この場所に居ることができる。

 小学生の頃、読書感想文が一行も書けなかった。国語の授業で、先生が朗読した「悲しい話」が僕にはちっとも悲しいと思えなかったからだ。クラスメイト達は、すらすらと原稿用紙のマス目を埋めていった。チャイムが鳴っても僕は教室を出ることを許されなかった。放課後、机の上には真っ白なままの原稿用紙があった。僕は先生に正直に自分の感情を伝えた。
「この話がどうして悲しいのか、どこが悲しいのか、僕にはわかりません」
 そのときの、先生の表情を僕はたぶん死ぬまで忘れないと思う。僕の感情は、どうやら人とは決定的に何かが違うらしく、それは決して歓迎されないことらしかった。

 半年に一度くらいの割合で、派遣会社から映画のチケットが僕の手元に届く。福利厚生の一環らしい。最初の三年くらいは利用せずに捨てていた。本を読むこと、映画やテレビドラマを見ること、音楽を聴くことを、僕は読書感想文が書けなかったあの日からずっと遠ざけて生きてきた。
 けれど一年前、僕は映画を見に行った。その日は珍しく気分が良かった。だから他人と違うということを改めて実感しても、それほど傷つかずに済むと思った。平日のレイトショーは人もまばらだった。スクリーンには東京の下町に暮らす人々の温かな交流が映し出されている。途中で何度か、すすり泣く声が周囲から聞こえてきた。けれど、僕の感情が動くことはなかった。
 映画の終盤、庭先の木から一枚の葉がはらりと落ちるシーンがあった。なぜだか解らないけれど、それを見た瞬間、自分でも驚くほどに心が揺れた。胸の奥がざわざわする。感動するということは、こういうことだろうか。気づけばエンドロールが終わっていた。劇場内が明るくなっている。僕の座っている隣の隣の席に、ハンカチで目元を拭っている女の人がいた。本当に自分勝手なのだけれど、僕はそのとき、この人なら自分の話を聞いてくれるのではないかと思った。誰かに、この感情を打ち明けたかった。
 僕は訳も解らず、ただ自分の感じたこと、言いたいことを、その人に向かって大声で喋った。ひどく興奮していた。夢中だった。でも一息ついて冷静になると、急に自分のした事が怖くなった。女の人は怯えた表情で僕のことを見ていた。知らない男に突然、声を掛けられてまくし立てられたのだから当然だ。後悔と申し訳なさで息が出来なかった。
 苦しくて映画館の出口で嘔吐いていると、彼女が水を買って来てくれた。僕は何度も「すみません」と謝った。「もう、いいですから」と、その人は言った。謝ることも出来なくなって、僕はもうどうしていいか解らなかった。立ち上がれずにいる僕の背中をその人はさすってくれた。どうしてそんな風にしてくれるのか理解できなかった。考えても考えても解らなくて、いつまでも苦しいままだった。

 作業着を脱いで私服に着替える。仕事が終わるのは午前三時。終業から二十分でバスが出発する。駅のロータリーに着くと、見知った人影を見つけた。
「おかえり。お疲れさま」
 あの日、映画館で水を買ってくれた人は今、僕の目の前にいる。いつもこの場所でこの時間、僕の乗ったバスを待っている。彼女に「ただいま」と言う瞬間、心の奥がざわざわとして落ち着かない気分になる。一緒に暮らし始めて半年。何度も繰り返したやり取りにまだ慣れないでいる。
 午前四時の帰り道、僕は、いつも宙に浮いている。ふわふわと浮ついた気持ちを、自分の両腕を目一杯に広げてなんとか抱えている。そうやって僕はいつも、この道を彼女と歩いている。
 隣にいる彼女の顔をちらりと盗み見た。朝と夜の隙間にいる彼女の横顔をとてもきれいだと思った。心が揺れる。あの日、背中をさすってくれた優しいこの人を守ろう。毎朝、僕を駅まで迎えに来てくれるこの人を大事にしよう。僕の感情はいつも間違っている。だけど、今この瞬間に感じるこの感情だけは、間違っていないと僕は思える。



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