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新崎 彼方さん

性別 女性
将来の夢
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さよならを告げないで

17/12/16 コンテスト(テーマ):第150回 時空モノガタリ文学賞 【 悲劇 】 コメント:0件 新崎 彼方 閲覧数:407

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「さよならって言葉がこわいのよ」
 何の連絡もなく押しかけてきた彼女は、開口一番にそう言った。マフラーと手袋を外すと、ああ寒い、と少し身を縮めて、するりと僕の横を通りすぎて行く。
「暖房をあげようか」
「いえ、いいわ。十分あたたかいから」
 古めかしいペチカの前に座り込み、彼女は微笑む。灰色のコートが濡れて変色していた。雪が降っているのだろうか。うすいレースのカーテンを引けば、ほの暗いまちにちらちらと雪が舞っている。
「もう、雪の降る時期か。はやいものだね」
「随分前から冷え込んでいたじゃない。貴方は中々外に出ないから気がつかないのね」
 あたためたカップに珈琲を淹れて彼女に差し出す。ありがとう、と告げて猫舌の彼女は慎重に口をつけた。その様子を見ながら、ソファーに腰を下ろす。
「それで、どうしたんだい」
「なんのこと」
 彼女がくるりと振り返った。
「なんと言ったか……ああ、さよならがこわいって」
「ああ、そのこと」
 彼女は少し笑って、大したことじゃないのよ、と呟いた。
「偶々、高校のときの、同級生に会ったの」
「うん」
「すごくフレンドリーに話しかけてきてね、でも、誰だか思い出せなかったの」
 カップの中にある、黒い水面を見つめていた。
「高校時代って、なにをしていたかしら。そこまで昔のことじゃないはずなのに、全然思い出せないのよ」
「……寂しいかい?」
「ええ、一寸……いえ」
 哀しい、かしら。彼女はペチカから視線を動かさなかった。
「貴方のことを覚えていない、なんて言えなくて、愛想笑いで別れたわ。さよならって」
 ぱちぱちと爆ぜる音を聞きながら、彼女の声に耳を澄ませていた。
「さよならって言葉は、もう会えないような気がして、昔から好きじゃなかったわ」
 珈琲に少しだけミルクを落とす。くるり、かき混ぜたその色は、彼女の髪によく似ていた。
「会えないことが、哀しいのかい」
「忘れることが、哀しいわ」
 だって、忘却は死と同じよ。彼女は口元を少し緩めた。
「彼女は私の中で死んでしまったの。そうじゃない?」
「そうして君に会って、また生き返ったのだろう?」
 僕はそう返す。きわめて軽やかな口調を意識して。
「それはなんだか、素敵に思えるね」
「……貴方って、楽観的というかなんというか」
 彼女はようやくこちらを振り向いた。そのあまりに整った顔に、呆れたような、安心したような笑みを浮かべていた。
「世界は悲劇で満ちているんだ、このくらい思わせてくれよ」
 口に含んだ珈琲は苦くて、ほのかに甘い。そうね、と呟いて、彼女もまた同じように珈琲を飲んだ。
「世界はいつだって、悲劇を待っているもの」
「待たせておけばいいさ」
 いつまでも。
 彼女は今度こそ無邪気な笑みを浮かべた。貴方のそういうところが羨ましいわ、と悪戯に笑う。
「そろそろ帰るわ」
「送ろうか。冬道は危ないよ」
 腰を浮かせたところで、結構よと彼女が言う。
「貴方の身体に障るわ。そっちの方が危ないわよ」
「最近は調子がいいんだ」
「無理はしないでって言ってるじゃない」
 玄関まででいいわ。言いながら彼女は空になったカップを差し出した。それを受け取って、自分のカップと一緒にキッチンへ持っていく。それから、やや冷えたフローリングをスリッパで踏みしめて彼女を追った。彼女は僕の少し前を歩いて、重厚感のあるブーツに細い足を隠した。
「まだ雪は降っているかな。傘、使うかい」
「そうね……借りてもいいかしら」
 紳士用の傘しかないが、幾分か華奢なものを選んで彼女に手渡す。ありがとう、と告げて、彼女は長いマフラーを器用に巻き付けた。
「また、来るわ。珈琲、御馳走様。次はあたたかいココアが飲みたいわ」
「用意しておくよ」
 去り際に注文をつける彼女に苦笑して頷く。満足そうに頷いた彼女が、ドアノブに手を掛けた。
「それじゃあ」
「ああ、また」
 彼女は微笑んで、白い雪の中に踏み込んでいった。
 シンクにカップがふたつ、置いてある。


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