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草愛やし美さん

時空文学コンテスト開催100回、おめでとうございます。思えば、初めて私が、こちらに投稿したのは2012年5月のこと、もう4年近く経ったのですね。時空モノガタリさまが、創作の場を与えてくださったお陰で楽しい時間を過ごすことができました。感謝の気持ちでいっぱいです。 また、拙い私の作品を読んでくださった方々に感謝しております。 やし美というのは本名です、母がつけてくれた名前、生まれた時にラジオから流れていた、島崎藤村作詞の「椰子の実」にちなんで……大好きな名前です。ツイッター:草藍やし美、https://twitter.com/cocosouai 

性別 女性
将来の夢 いっぱい食べて飲んでも痩せているっての、いいだろうなあ〜〜
座右の銘 今を生きる  

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あなたのための喫茶店

12/12/13 コンテスト(テーマ):【 喫茶店 】 コメント:14件 草愛やし美 閲覧数:2160

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 純は、家への帰り道を疲れた足取りで歩いていた。会社であったことが脳裏を過り、自然に溜息がもれる。勤続20年、男性なら表彰されて意気揚々となる時期かもしれないが、純にとってその年数は辛いものだった。お局さまと陰口を言われることにはもう慣れていたが、話す相手がいないのはやはり寂しかった。会社では孤独だった。上司から疎んじられ、他の女性社員からは敬遠されていた。相談する家族もいない純にとって、何のために会社に行っているのかわからず、もはや生きている目的や夢など持てない人生になっていた。
 何かしら、気配のようなものを感じ、ふと顔をあげると、暗い路地が目に入った。「こんな路地あったかしら?」そう呟きながら、路地の奥の暗がりに視線をやると、暗がりの中にぼんやり浮き上がる白い看板が目に入った。何だろうと気になった純は、路地に足を踏み入れていた。看板には、『純さんのための喫茶店』と書かれている。
「えっ! 私のための喫茶店」
 純は思わず大きな声を出した。その声に反応したかのように、その喫茶店から、黒い影が出てきた。黒づくめの服を着た男だった。男は低いけれど、響くような声で「ようこそ純さん、お待ちしていました」と言った。純は驚いて目を見張って男の顔を見た。男はにこりと笑うと、ドアを開けお辞儀をした。ドアボーイのようにお辞儀をしながら手招きしている。純はその手の動きに導かれたのように、店に入っていた。
「私のためって……?」
「そうです、純さん、あなたのための喫茶店なんです。本日開店しました。ぜひ、私の煎れます特性コーヒーを飲んでいってください」
 純は頭の片隅で訝しいと感じながら、男の心地よいハスキーボイスに思わずコクリと首を縦に振っていた。男はカウンターの椅子を引くと純に座るように促した。カウンターに座ると、男は棚から缶を取り出し、コーヒー豆を焙烙に入れ、火にかけると、ゆっくりとそれを煎り出した。
「少し時間がかかりますが、これが最良のコーヒーを入れる方法だと私は信じています。豆が酸化しますので、そのつど煎っております。今日は初めてですので、浅煎りにしておきましょうね」
 男は、笑顔を純に向けながら、コンロの前で手を動かしている。円を描くように、ゆっくりとそして時に早く。純はその手の動きに見とれていた。焙烙からいい香りが漂ってくる。静かな空気にいつしか純は癒されていた。会社であった嫌なことが脳裏から抜けていくように感じていた。上司の叱咤の言葉、同僚たちの嫌味な囁き、軽蔑の眼差し、全てがどこか遠い世界の出来事のように思われた。しばらくすると、男は煎った豆を手早く冷やし、用意したサイフォンを操作している。その様を純は、ぼんやりと見続けているだけだった。
 やがて、純の前に、芳醇な香りのコーヒー碗が提供された。暖められていたカップは、それを握った純の手を優しく温めていく。一口含んだコーヒーの味は素晴らしいものだった。コーヒーにそれほど詳しくない純だったが、今まで味わったことがないコクのあるものだった。体中に暖かいものが染み渡っていく。いつしか純は涙ぐんでいた。
「ゆっくりしていってくださいね。ここはあなたのための喫茶店ですから」
 男の心地よい声が静かな店内に響いていく。純はいつまでもそこに留まりたかった。ふと、我にかえって純は時計を見た。
「もう、10時なんですか、大変帰らなくては」
 男はカウンターから立ち上がると、ドアのほうへ歩いていく。
「あのぅ、お勘定をお願いします」
「お代金はもう戴きましたよ」
「えっ? まだ……」
「疲れているならその疲れを、苦しんでいるならその苦しみを、怒りが収まらないならその怒りを、そして、思いきり泣きたいならその涙をお帰りの時までに、置いていって下さいね。それが、お代金です。これがレシートですよ」
 見ると、『特性純さん用コーヒー領収済み』の文字が見えた。純の顔が輝いた。
「明日もここは開いていますか?」
「はい、いつでもお越しください。純さんが必要とされる時が、この店の開店日です」
 ありがとうと感謝の言葉をいったはずだったが、気が付くと純は道路に立っていた。夜の10時、外はもう暗くなっているはずなのに、仄かに明るい。夢だったのかと思ったけれど、手にしっかりと喫茶店のレシートを握りしめていた。純はレシートを大事そうに胸に抱きしめいつまでもそこに佇んでいた。
 
   ☆      ☆

「こんにちは、私は『たったひとりのための喫茶店』をフランチャイズで展開している者です。この世のどこかで、誰かのため、この素敵な喫茶店をやってみませんか? 頑張っているけれども、どうしようもできないで辛い思いをしている方のために、その人のための喫茶店を開店するのです。とてもやりがいのあるお仕事です。ぜひ、お考え下さいね」


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このストーリーに関するコメント

12/12/13 泡沫恋歌

草藍さん、拝読しました。

よいお話ですね。
こういう喫茶店があれば駆け込みたい人は大勢いるかも知れません。
なるほど巧い所を突いてますよ。

いつもながら上手いストーリー作りに感心させられました。

ありがとうございました。

12/12/13 そらの珊瑚

草藍さん、拝読しました。

以前、注文を受けてから豆を焙煎してくれるお気に入りのお店がありました。
サービスでいただけるコーヒーが美味しくて待つ時間も苦になりませんでした。焙煎前の豆って薄い緑がかった白い豆なのですよね。

たったひとりのためのの喫茶店、いいなあ。
きっと明日の純さんは笑顔でしょうね。

12/12/14 石蕗亮

草藍さん
拝読いたしました。
お代が重荷っていいなぁ。私もその喫茶店行きたい…。
3月までは忙殺気味が続きます。
どこかで楽になりたい。

12/12/16 ドーナツ

拝読しました。
奇想天外なコメディーとはぐっと雰囲気のちがう文章で、ほんとうにコーヒーで一服したような落ち着き感あります。

こういう喫茶店が、本来あるべき喫茶店の姿じゃないかな て思います。

いいですね。こういう店 オープンしたいです。

12/12/16 kotonoha

草藍さん コーヒー通の私にはたまりません。
こんな喫茶店があれば毎日通います。
いい香りのするコーヒーでしょうね。

「フランチャイズで展開している者です。」うまい展開ですね。
楽しませていただきました。ありがとうございました。

12/12/18 W・アーム・スープレックス

ちょっと立ち寄らせてもらいます。

居心地がよすぎて、外に出るのが嫌になるようなお店ですね。
けれど純さんとおなじように、いつかは夜の道路に立たなくてはならない。
レシートの電話番号、しっかり携帯に打ち込んでおきます。

失礼しました。

12/12/31 草愛やし美

泡沫恋歌さん、いつも読みに来てくださってありがとうございます。とても嬉しいコメントに、舞い上がってしまいました。

もとは詩で、書いたものから起こして掌編にまとめたものです。自分でも、こんな喫茶店あればなって思います。

12/12/31 草愛やし美

そらの珊瑚さん、そうなんですってね、私の友が自分で豆を煎ってコーヒーをたてる人でした。お家に寄せていただいた折にご馳走になりましたが、相当な時間と手間がかかっていると感激しました。
その友は、ついには豆を挽きすぎて腱鞘炎になってしまったそうで、しばらくはコーヒーを飲めなかったそうです。それでも美味しい酸化していないコーヒーを飲みたいとまた頑張っているそうです。
素敵なコメントを、ありがとうございました。

12/12/31 草愛やし美

石蕗亮さん、お読みくださってコメントをありがとうございます。

3月までお忙しいのですか、大変ですね。お体、ご自愛ください。お忙しいのに来てくださってとても嬉しいです。

喫茶店で癒される方は多いと思います。私の姉は毎日、何をするでもないのに同じ喫茶店に行っています。それがないと一日が始まらないようです。

13/01/01 草愛やし美

ドーナツさん、お読みくださってありがとうございます。

ぜひオープンをしてください、私がお客になりますのでよろしくお願いします。喫茶店ってやはり落ち着ける場所、いつまでいても許されると思うだけで気が楽になったりします。美味しいコーヒーや紅茶、それに有り余る時間があれば、充分でしょうね。

13/01/01 草愛やし美

月見草さん、来て下さったんですね嬉しいです。

コメントありがたいです感謝しています。美味しいコーヒーは時間がかかると思います。手間ひまかけて焙煎したコーヒーを出してくれるお店、いいですよね。

13/01/01 草愛やし美

W・アーム・スープレックスさん、お読みくださってコメントをありがとうございます。

どこかで気持ちが救われれば、優しい時間のようなものに包まれれば、きっとまた元気に出て行けるのではって思います。
喫茶店はある意味、そういう場所かなって思います。一人でのんびりというかぼんやりしている人もいます。何かをしなさいとか、やめなさいとか、誰かにあれこれ咎められないのがいいところなのかもしれませんね。

13/01/07 鮎風 遊

喫茶店をやる方じゃなく、毎日、お世話になりたいです。

運というおまけがもらえれば、もっと嬉しいんですが、
こんな欲を置いて行く喫茶店なんですね。

13/01/09 kotonoha

こんな喫茶店やってみたいです。
是非ぜひ。

私だけの喫茶店、いいですね。辛ければ涙を置いていけばいい。それがお代金、何というロマンチックな読みものでしょう。
現から離れて彷彿としています。

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