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冬垣ひなたさん

時空モノガタリで活動を始め、お陰さまで4年目に入りました。今まで以上に良い作品が書けるよう頑張りたいと思いますので、これからもよろしくお願いします。エブリスタでも活動中。ツイッター:@fuyugaki_hinata プロフィール画像:糸白澪子さま作

性別 女性
将来の夢 いつまでも小説が書けるように、健康でいたいです。
座右の銘 雄弁は銀、沈黙は金

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鯉昇る夢に賭けて〜ヒロシマの約束〜

17/09/25 コンテスト(テーマ):第143回 時空モノガタリ文学賞 【 約束 】 コメント:2件 冬垣ひなた 閲覧数:687

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 明日を生きるのも困難だった頃、数少ない国民の娯楽は野球だった。
 道具をこさえて、投げて、打って、走って。
 自由への渇望はスポーツに変わり、人々はこぞってプロ野球の選手に夢を託した。
 地面に目を向ければ焼け野原。
 高く打ちあがったボールの吸い込まれる空の青さに希望をつなぎ、誰もが上を向いて生きる。そんな時代に、復興の象徴として広島カープが産声を上げたのは1950年(昭和25年)の事だった。


 原爆の爪痕が残る焦土の広島には、戦地から戻った兵士が溢れ、平和の足音が徐々にだが確実に近づいていた。
「広島に新球団誕生!」
 突然の知らせに県民はどよめき、街は期待と喜びの声で埋め尽くされた。カープ(鯉)という球団名も、鯉城とよばれる広島城をなぞらえていて、実に郷土愛に満ちたネーミングだ。
 発会式には2万人のファンが詰めかけ、石本秀一監督は熱い野球魂を目の当たりにしたが、実は内心、冷汗をかいていた。
 うちは資金が足りない、良い選手も少ない……緊急に寄せ集めた人材だけでは足りず、喫茶店のマスターにまで声をかける程だったから、立派な球団とは言い難かった。
 だが監督が石本だからこそ、何とか体裁を成したのだともいえる。阪神の監督時代には、後世にまで語り継がれる巨人との「伝統の一戦」を築き上げた男だ。こと野球にかけては情熱で負けるはずがない。
 彼がこうしてカープのために奔走するのは、広島出身というだけでなく、原爆の犠牲となった実家の家族を思い、復興への熱意を人々と共有するからだった。
「カープは県民のチームでなければならない」、親会社を持たず自治体からの出資という、前途多難なスタートだったが、ファンの夢を背負い「勝ちを召し取る(飯取る)」しゃもじが渡された時、石本はカープの優勝を広島の地にもたらす約束を胸に秘め、球団誕生を祝った。


 何とかカープ入りした人気の一流選手といえば、助監督兼任選手の白石勝巳が唯一だった。人材不足で伸び悩むカープを影日向に支えることになった初代背番号1番、彼もまた広島出身選手である。とにかく石本は選手が欲しかった、入団テストに訪れた高校生が入団の判を押すまで帰さなかった程だ。
 そんな石本を運は見放さなかった。
 ある寒い日の事、小柄な男が球場を訪れた。社会人チームを渡り歩いていた長谷川良平、そのピッチングが始まるやいなや皆がくぎ付けになった。
 素早い独特の投球フォームから繰り出すシュートは、打者のバットをへし折る程に鋭い。並はずれた力量だった。石本は飛びつくように彼と契約した。鯉が金の卵を産んだ。天はカープに味方したのだ。


 だが産みの苦しみのあとには、育ての苦しみが待っていた。
 熱狂的なファンの応援とは裏腹に、最初の年は最下位に甘んじ、選手への給料も遅れる有様で、石本の口癖は「金がない」だった。
 昭和26年、カープの窮状を見てはいられないと、球場前に樽が置かれ始まった募金活動に、観戦に来たファンはなけなしの金を寄付してゆく。それほどに広島県民の、カープへの熱い想いがあった。
 しかし願いも空しく、程なくしてラジオから衝撃のニュースが流れる。
「カープ、合併か?」、知らされていなかった事態に石本は選手の動揺を鎮めながら「ワシにまかせてくれないか」と言うしかなかった。
「カープを潰さないでくれ」「おらが町はカープあってのものだ」、役員会のある旅館前は、合併反対のファンが押し寄せていた。故郷の未来、選手の明日、監督の本分、様々な思いが石本の心を動かした。
 カープは弱い。負け続けたが……それでも愛されている。
 石本は、策に賭けた。


「県民から、少しずつお金を集めるのです」、役員たちに示した石本の提案は、後援会構想だった。樽募金でも県民は多大な援助をしてくれた、その熱意を借りて球団を運営してゆく……彼の説得で合併話は見送られることになった。


 石本はカープにとって監督という以上に、育ての親でもあり続けた。存続の危機に何度も陥った球団を支え通算197勝をあげたエース長谷川、石本を継いで監督になった白石も奮闘した。初代広島市民球場ができ、資本は東洋工業(現マツダ)に一本化され時代も変わったが、優勝はいまだ叶わず。
 それでも諦めなかった広島ファンの願いが通じたのは、1975年(昭和50年)である。
 トレードマークの「赤ヘル軍団」が誕生したこの年、カープは快進撃を続けた。10月15日対巨人戦9回表、ホプキンスが3ランホームランを放ち、広島初優勝の歓喜に包まれた選手とファンとを、家のテレビで静かに見守る老人がいた。


 ……石本は、人目をはばからず泣いた。
 25年間、焦土で生まれ育った鯉がついに天高く舞い上がり、あの日の約束……優勝の二文字を、故郷・広島にもたらした瞬間だった。


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このストーリーに関するコメント

17/09/26 そらの珊瑚

冬垣ひなたさん、拝読しました。
今、広島に住んでいる私にとって(にわかファンではありますが、カープの一ファンの私にとって)
このお話を書いていただいて
ありがとうございます!と感謝したいです。
市民球団としてカープは、広島の歴史と共に今も市民としてあり続けています。
それは原爆からの復興の証しとも私には映るのです。人間って強いですね。
現在のマツダスタジアムが建設される時にも、市民からの寄付(たる募金と呼ばれてるもの)を募ったそうです。
今年こそ、日本一に!と応援しています。

17/09/26 冬垣ひなた

そらの珊瑚さん、コメントありがとうございます。

もともとテーマ「平和」の時に知ったお話ですが、広島出身の方と知り合って思うのは。郷土に対しての思い入れが特に強いのだという印象ですね。
今回調べてみて、広島の歴史と結びついたカープへの熱い想いが感じられ、現在もそうあり続けることに感銘を受けます。
樽募金、今でもあるのですね。市民との繋がりが、強さの原動力なのだろうなと感じます。私も日本一を応援しています!

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