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犬塚比乃子さん

日々修行です

性別 女性
将来の夢 小説家
座右の銘 家にて小説を書けば小説家なのだろうか。

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タビダチノウタ

17/07/25 コンテスト(テーマ):第139回 時空モノガタリ文学賞 【 旅 】 コメント:2件 犬塚比乃子 閲覧数:669

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 息を吐いた。それは鈴木勝彦自身のこれから人生における生命活動には不必要なことだった。
 自発的に呼吸をすることが難しくなってから数年。病に臥せってからというもの酸素マスクをはずしたことがなかった彼にとっての最期の呼吸は深く、長く。しかし、街に唯一の入院施設がある大学病院の寝台(ベッド)の周囲にはべる周囲の人びとからしてみればひどく短いものに感じられた。
 五十二歳の彼は、中学校で数学の教員を勤めていた。三度の飯よりも煙草が大好きで、しかし、元柔道部で鍛錬を欠かさなかった彼は身体が丈夫なのがとりえだった。なので、肺病病みになって咳とともに桃色をした痰が出てくるようになるまで自分の身体における異変が起きてもまるで気付かずに、一日二箱の煙草を喫い続けてきたせいで、最終的に入院したさきの病院の寝台から起きあがることもままならなくなったのだ。
 田舎で農家を営んでいる梅干しのように陽に焼けて年老いた両親の他に、三つ年が下まわっている妻の節子や高校二年生でひとり娘のほのかも大学病院にある入院患者のベッドの周りに集まった家族たちのうちひとりで、鈴木勝彦の最期を看取りにきたのだった。彼は穏やかに今日という日を迎えるために三週間前から入院にのぞみ、まだいくぶんか身体が動くうちは酸素ボンベをとりつけた電動車椅子を使って普段の生活を成してきたのだ。
 息を吐き終わった彼は臨終を迎えようとしている。生命のサインを傍らの生命維持装置に託したままで。突如として呼吸が停止したことをしめす電子音が響く。とうとう、自発的な呼吸ができなくなった瞬間がやってきたのだ。彼の家族たちを含む医者や看護師たちも重苦しい沈黙に耐えていた。心臓が停止するまでのあいだあの世へと旅立とうとしているさなかの彼を送り届けようとしているのだ。
 梅干しのような両親と同じような表情になって妻の節子はただ涙を流して静かに泣いていたが、そんなとき、美しい声で歌い始めた者が居た。ひとり娘のほのかが、学校で習い覚えた聖歌を唄い始めたのだった。それはその部屋に居た誰しもの鼓膜に届いた、あたかも彼自身の人生の賛歌のようだった。心臓が停止するまでの少なくとも数分間までは父の耳は生きている。事前に主治医からそう教わっていた彼女は、祈りのようにソプラノの声で歌った。
 酸欠によりもがきながら死んでいった彼、鈴木勝彦にとって末期、それはとても穏やかなものだったことを示してはおらず、咽喉をかきむしりながら苦しみにくるしみ死後硬直が解けるまですさまじい形相だったという。
 「ああ。もう、息が苦しくないんだね。」
 どこか安心したように節子はそう言って、娘や葬列へ参加した客へと無理やり笑顔をつくってみせた。人望が厚かったため、かつての教え子たちも連れだって訪れた葬式だった。お棺のなかに寝そべり、仕合わせそうに薄く笑みを浮かべた鈴木勝彦における人生最後の旅立ちだった。
 

 

 


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このストーリーに関するコメント

17/08/08 雪野 降太

拝読しました。
淡々と進む事象のなかで小さなドラマがあるという、非常に短編らしい構成で好感が持てました。

17/08/17 犬塚比乃子

トッテンさん>コメントありがとうございました。これからも励みにします!

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