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恩返し

17/07/17 コンテスト(テーマ):第138回 時空モノガタリ文学賞 【 猫 】 コメント:0件 いちこ 閲覧数:602

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 午後11時。
 今にもぐったりと崩れてしまいそうな体を気力で動かす。まだ家には着かない、頑張らねば。
 仕事でくたびれ果てて、やっとのことで家まで帰るのはいつものことだ。むしろ今日は早く帰れた方で、日付が変わる日も多かった。遅く帰るからといって遅く出勤できるわけではなく、当然疲労は蓄積していく。このまま目覚めなければ良いのにと思いながら眠りにつく日々が続いていた。

 赤信号で立ち止まる。
 一度止まると、そのまま座り込んでしまいたくなる。しかも、この信号は待ち時間が長い。
 欲求と必死で戦っていると、足元をさっと影が走った。
「猫だ」
 視線を遣り、思わず呟く。
 猫はこちらを向いてしっぽを揺らした。
 呼ばれている。ばかばかしいが、そう感じられた。
 よろよろと距離を縮める。
 私が一歩近付くと、猫は向こうへ半歩進む。
 距離は少しずつ、じわじわと縮まっていった。
 ようやく猫に手を伸ばしたとき、眩しい光とゴトンッという大きな音が私の体を揺さぶった。
 耐えられず尻餅をつく。
 一呼吸おいて周囲を確かめると、そこには、黒い車が歩道に乗り上げていた。
 そう、そこは、ほんの数分前に私が立っていた場所だった。


 あのあと車から降りてきた人によると、飛び出してきた自転車を避けようとハンドルを切ったそうだ。私を轢かなくて良かった、申し訳なかった、と何度も謝られた。
 車が乗り上げたのはちょうど信号機の前。普通に信号待ちをしていたらぶつかっていたはずの位置だった。私が轢かれなかったのは、運が良かったからでも、奇跡が起きたからでもない。あの猫が私をあの場から連れ出してくれたからだ。
 帰宅してシャワーを浴びながら、私は決心した。
 ――あの猫に恩返しをしなければ。
   気付けば姿を消していたあの猫に、何としても。


 翌朝、私は会社に電話をした。
「はぁ!? 休む? 何言ってるの、休めるわけないでしょう!」
 電話の向こうでは戸惑いの混じった怒鳴り声が聞こえたが、恩返しのためにはやむを得ない。後でおとなしく怒られればいい。
 私は、体調が悪かろうと這うようにしてでも出勤していた会社を、初めて休んだ。
 それから、恩返しの計画を練った。
 恩返しといえば、『鶴の恩返し』だ。あれは鶴が人間に化けて、恩返しとして富を与える話だった。ならば私も猫になるしかないだろう。
 さて、問題はどうやって猫になるかだ。とはいえ、この問題も解決の光が見えた。インターネットで検索したところ、いくつかの方法が見つかったのだ。調べた身で言うのも変だが、こんなことまで分かってしまうなんて、なんと良い時代なんだろう。
 方法が決まったからには、まずは準備だ。
 窓を開けて風を入れたり、もう何年も敷きっぱなしだった布団を干したり、食料を買いに行ったり。今まで放置していたものが多すぎて、準備だけで1日が終わってしまった。


 朝。
 ”猫になるには、朝、目が覚めるまで寝なければならない。決して目覚まし時計のような無粋なものに起こされるようなことがあってはならない。”
 目が覚めると、既に昼の12時を過ぎていた。前日も22時には布団に入ったのに。
 手をついて背中を反らす。猫の背伸びだ。
 ”目覚めたら食事をとる。食事後は顔を丹念に洗う。身支度ができないものは、猫失格だ。”
 ”食事と洗顔が済んだら、縄張りを巡回しに散歩に行こう。”
 指南通りに朝ごはんを食べ、顔を洗い、散歩に出かけた。
 日の光の中を歩くのは久しぶりで、空気が清々しく感じられた。いや、久々と感じたのは日光だけではない。こんなにぐっすり眠ったのも、しっかり食事をとったのも、何年ぶりのことだろうか。
 ”縄張りに異常がなければ、体力を温存すべし。”
 散歩後は昼寝だ。毛布を持って、部屋の中の日向を探す。そして丸くなって眠った。
 目が覚めると辺りは暗くなっていた。
 ”眠くなったら寝る。食べたい時に食べる。これは基本だが、食事後や眠る前に身支度を整えるのを忘れないように。猫は必ず身体を綺麗にしている。”
 きちんと方法を守り、食事・風呂・歯磨きをして、布団に潜り込む。


 この生活になり、私は体がとても楽になっていくのを感じた。今まで無理しすぎていたのだ。
 そして3日目に、日向でごろごろしながら、別の方法を選ぶことに決めた。

 猫になるのはやめよう。
 今の仕事もやめよう。
 もう少し時間のとれる会社に転職するのだ。
 そして、あの猫を迎えに行こう。
 私が猫になって押しかけるよりも、よっぽど良いものを貢げるし、甘やかしてやることもできるはずだ。

 夜、暗くなった道を、あの信号機の前に向かう。
「ニャ」
 短い声。
 そこにはあの猫が待っていて、静かに尻尾を揺らしていた。


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