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秋 ひのこさん

歯について考える時、右と左がよくわからなくなります。右奥だっけ、左奥だっけ。虫歯が絶対にあると思われるあの場所を伝えるべく「ええと、右です。そして上な気がします」と言ったら先生が「うん、上は上でも左ですよね」とか言う瞬間が恥ずかしいので、虫歯は放置しているような人間です。こんにちは。 

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僕のキイ

17/07/09 コンテスト(テーマ):第138回 時空モノガタリ文学賞 【 猫 】 コメント:0件 秋 ひのこ 閲覧数:467

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 政吉(まさきち)の世界は、川のせせらぎと鉄橋を電車が駆け抜ける時の家の振動、生物と煙草の臭いが充満するこの部屋、そしてばあちゃんとキイで成り立っている。
 キイは猫だが、ただの猫ではない。体は熊のように大きく、二足歩行する。おまけに、かれこれ20年近く生きている。
 この奇妙奇天烈なイキモノの姿を、政吉は知らない。そもそも、本来の猫の姿はおろか、人間の姿形もわからない。生まれた時から盲目なのだ。
 政吉は12歳になるが、学校はおろか、まともに外に出たこともない。ばあちゃんが駄目だというし、外の世界についてほとんど知識がないままここまできた故、好奇心はほぼないに等しいのだった。
 政吉はキイのことが大好きだ。毛むくじゃらの大きな猫。片時も離れず、静かで穏やかな日々が過ぎていく。政吉の人生に不自由はなかった。
 
 酷く蒸し暑いある夜、部屋でキイとじゃれあっていると、戸を叩く音がした。ばあちゃんがぴたりと動きを止める。最近よくひとが来る。
 ホリタさん、警察です、という声がした。ばあちゃんが小声で「しー」と言い、政吉は息を吸って止めた。しばらくドンドンという音が続き、ボソボソと駄目ですね、いえ、絶対に中にいます、などという声。やがて三組の足音が去って行った。
 政吉はだーっと息を吐き、おかしくなってけらけら笑った。ばあちゃんが「しっ」と手をつねった。
 再び足音が戻ってきて、今度は先ほどよりうんと強く戸が叩かれる。政吉は驚いてキイに抱きついた。ドアノブがガチャガチャと揺らされる。怯える政吉とキイに「いいかい、何があってもばあちゃんが守ってやる」と言うと、ばあちゃんは立ち上がって戸を開けた。
「ホリタさん、児童相談所から通報がありまして、少しお話を。うわ、なんだありゃ、猫?」
「あんな小さな子供を学校にも行かせず監禁するなんて、虐待です。犯罪ですよ。おまわりさん逮捕してください」
「五月蝿い、帰れ。うちのことは放っといてくれ」
「ホリタさん落ち着いて。とりあえず署までご同行願えますか」
 声、声、声。政吉はキイの胸に身を押しつけ、耳を塞いだ。と、誰かが強引に政吉の肩を引いた。
「ボク、もう大丈夫だからね。おばさんたちが助けに来たから」
 政吉は抵抗したが、ぐいとキイから引き剥がされる。
「キイ」
 キイが、ガァーと喉から声を絞り出した。政吉は必死で声の方へ手を伸ばす。毛に指先が触れたところで、ぐんと後ろに引き戻された。
「キイ」
 応じるようにキイが鳴き、「政吉」とばあちゃんが叫ぶ。わけもわからないまま、政吉は誰かの手によって部屋から連れ出され、無理やりどこかへ押し込まれた。それが車だということを、政吉はまったく理解しなかった。

 視覚以外の感覚を研ぎ澄ませる。知らない臭い、知らない人間の声、冷蔵庫の中のような冷えた空気。何もかも未知のものばかりで、政吉は震えた。心を落ち着かせようと、キイの温もり、キイの臭いを思い出す。
 知らない女が政吉の腕にそっと触れた。
「政吉君、安心して。私たちはあなたの味方よ」
「キイはどこ。あいつひとりで怖がってる」
「キイって?」
「猫だよ。僕の猫」
 政吉は腕を大きく振り、身振りでキイを説明する。女が一瞬何かを言い澱む気配がした。



 夜中にこっそり鉄道高架下の川辺までデートにやってきた若いカップルがいた。ここならひと気がない。女が車から降り、用を足して戻ってくるなり男に言った。
「なんか、今やたら大きな猫みたいなイキモノを見た気がしたんだけど」
「猫?」
「うん、でも気のせいかも。暗くてよく見えなかったし」
 女は首をかしげ、そういえばと続けた。「随分前に話題になったよね。熊みたいに大きな猫がいたって。盲目の男の子が飼ってたとかいう」
「あったあった。あれ、オチが悲惨だったよな」
「オチ?」
「巨大猫の正体は、単なる着ぐるみだったって話。偏屈なばばあが酷い皮膚病でおまけに知的障害の兄の姿を隠すためにかぶらせたんだと。差別から守ろうとしてらしいけど。弟は目が見えないもんだから、そういうイキモノだって信じた。っていうか信じこまされた」
「何そのヘビーな内容……」
「結局ばばあは虐待で逮捕、兄は施設送り、弟は……、どうなったんだろう。忘れた」

 くぐもった人間の話し声が聞こえる。茂みの中で政吉は息をひそめていた。今、政吉はキイの「中」にいる。動かなくなってしまったキイを引きずりここまで逃げてきた。まさかキイの「中」にすっぽり入れるとは今の今まで知らなかった。不思議な猫。でもここにいれば安全だ。
 ばあちゃんが帰ってくるまで、ここでキイと待っていよう。
 政吉は大きな毛むくじゃらの手で膝を抱え、丸くなった。川のせせらぎと、電車が鉄橋を渡る音、キイの外側。うん、僕はまだ全てを失ったわけじゃない。


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