1. トップページ
  2. 玉手箱があればいいのにね

森伸さん

詩と短編小説が好きです。

性別 男性
将来の夢
座右の銘

投稿済みの作品

0

玉手箱があればいいのにね

17/04/18 コンテスト(テーマ):第132回 時空モノガタリ文学賞 【 浦島太郎 】 コメント:0件 森伸 閲覧数:744

この作品を評価する

「浦島太郎みたい」
家に帰ってきた母が言った。母は末期の乳癌だった。抗がん剤による治療がうまく行って、一時的に症状が小康状態になってので、帰宅することを許されたのだ。ふっくらとしていた頬は削げて、骨が飛び出している。髪は抗がん剤の副作用でほとんど抜けていた。
目だけが昔のままだ。茶目っ気を秘めて、きらきらしている。
離婚して実家に帰ってきた私は仕事をしながら、母と一緒に父の介護をしていた。父は認知症が進んで、今は老人ホームに入っている。私や母のことは分からなくっていた。ときどきホームに行って面会しても、うつろな眼差しでこちらを見るだけだった。
母が浦島太郎みたいと言うのは理解できた。実家は母と父が住んでいた頃から変化している。中年の女性の一人住まいのわびしい雰囲気が漂っている。花は飾っていない。冷蔵庫の中は空に近い状態だ。仕事に行っている間は窓を閉めているので、カビ臭いにおいが漂っていた。
母はカーテンと窓を開けて、狭い庭を眺めた。庭の隅に赤と黄色の彼岸花が咲いていた。他には、私が食用用に栽培している三つ葉が生えている。庭の状態は、母が家にいた頃とそれほど変わらないはずだ。私も母と同じように園芸が好きで、花や野菜を育てていた。
「すぐにご飯を作るね」
母に声をかけて、夕食の支度を始めた。泣かないように、泣かないようにと自分に言い聞かせた。母は生きてこの家を見ることはないだろう。次にここに帰ってくるのは、息を引き取ってからだ。それを考えると、平静を保つのは難しかった。包丁を持つ手が震える。油断すると、涙がこぼれそうになり、私は唇を強くかんだ。
母は私が作ったちらしずしを喜んでくれた。このちらしも母から作り方を教わった。母の味にはかなわないような気がする。それでも、食欲を失くしている母が多めに食べてくれたので、嬉しかった。
食べながら、私達はとりとめのない話をした。父のこと。私の仕事のこと。母が病院で知り合った人たちのこと。食べ終わった時はまだ6時過ぎだった。西の空はお金色に染まっている。庭の方から虫の鳴き声が聞こえた。
母が海を見に行きたいと言ったので、すばやく戸締りをして二人で歩き始めた。潮の匂いが強くなると、母は背伸びをして、深呼吸した。
「ああ、良い気持ち」
そう言った後に咳き込みはじめたので、私は母の背中を撫でた。母の背は昔にくらべてずいぶん縮んだように感じた。夕日が地平線の彼方に沈もうとしているところだった。
「あんたはもう結婚しないの?」母がぽつりと言った。
「もう男はごりごりだから」私はそう言うしかなかった。再婚して母を安心させるのが、最後の親孝行だろう。でも―――。
「玉手箱があればね」母は突拍子もないことを言った。
「玉手箱?」
「竜宮から帰ってきて急に歳をとった浦島太郎は、さびしかったと思うの。そのさびしさを知ったら、あなたも結婚しようと思うでしょう」
母の言葉に言い返すことはできなかった。よく見ると、母の目は涙で光っていた。


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

ログイン