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水面 光さん

■ホームページ「水面文庫」 http://www.minamo-bunko.com/ 忙しい中でも身を粉にして執筆活動しております。ジャンルとしては現代ファンタジーが中心でございます。よろしくどうぞー

性別 男性
将来の夢 物書きでメシを食う
座右の銘 人の心は変わらないから自分が変われ

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女人観察人

16/08/29 コンテスト(テーマ):第117回 時空モノガタリ文学賞 【 本屋 】 コメント:0件 水面 光 閲覧数:830

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「疲れたのだよ、もう」彼は強烈に息まく画面の向こうの若い女に向かってつぶやき続けた。「夜になると酒をやったわけでもないのに吐き気がするんだ。なのに、余計それを助長する向精神薬をやらなくちゃならない。連中は当然だと思ってるらしいが肉体に異物を、しかも金属をぶっ刺すということの異常性が、勉強はよくできるはずなのに、それだけがまったく理解できないようなんだ。点滴なんぞ絶対に嫌なんだよ! 採血でさえ嫌なのに、ずっと金属を我が肉体にぶっ刺しておかねばならないことに意味などあるものか。肉体しかもわざわざ血管にぶっ刺すんだぞ? 想像しただけで寒気がする。もしもそんなハメになっちまったら死ぬよりかはマシだとわしが思うとでも? はっきり言おう、死んだほうがマシだぜ。なんでこんなことを毎日毎日しなきゃならない? なんで歯磨きなんぞ、お口のお手入れだと? わしとフレンチ・キスするわけでもないのに、なんで嫌がられないといけない? こないだ夜のコンビニ帰りに排水溝の上のでかいグレーチングの奥からがっしゃんがっしゃんいうムカつく音が聞こえたんだよ。しかしよく聴くと汚水の流れる音が混じってた。別に汚水の音というのは排水溝からだけ聞こえるものじゃない。自分の腹から聞こえるおかしな音もそのひとつだ。音というのは聴覚だけを刺激するものではない。嗅覚も同時に活性化させる。汚水のにおいだ。実際ににおってるわけじゃない。排水溝から聞こえる音も、腹から聞こえる音も、そして排泄時の音も、事が終わったあと流す音も、みんなにおいを伴っている。これは常に可逆的な現象だ。音はにおいを、においは音を、それぞれ感知させる。その好例を話してやろう。古本屋の二階はお宝本のまさに宝庫だった。しかし、わしは今すぐに立ち去りたかった。もうわかるだろう? 汚水の音が聞こえたからだよ。古本の手垢のにおいを知ってるだろう? あすこは空間がすべてそのにおいで満たされていた。それを嫌々ながら嗅ぎとり、そして汚水の音を聞いた。排水溝から聞こえる音も、腹から聞こえる音も、そして排泄時の音も、事が終わったあと流す音も、みんな聞こえた。そりゃ実際は静かだったよ。客もわし以外には一人か二人くらいだったし、そんなところで大騒ぎするマジキチが偶然そこに居合わせる確率もほぼゼロだ。たとえばもし、そこが古本屋でなく、新品の本ばかり置いている本屋だったとしよう。なにも嗅ぎとれないし、なにも聞こえないと思うか? わしは若い頃、大型書店に好んで通っていたことがある。今思い出せるのは確実になにかにおっていたし、確実になにか聞こえていた記憶──ここにずっと居てはいけない。確かにそう思った。居場所なんてどこにもなかった。今でも。繰り返すようだがわしは疲れたのだよ、もう」若い女の生放送は終わっていた。聞こえるのはノートパソコンから聞こえるファンの音とコオロギの鳴く声くらいだったが、彼は確かに別の音を聴いていた──汚水の音。もちろん可逆的なのでにおいも感知していた。加齢臭や獣臭や、何と言ったらいいかわからない得体の知れないにおいから感じ取れる音──汚水の音。「わしは母さんの出す咀嚼音が心の底から嫌いだった。でも今はそれさえも心の底から愛おしい。そしてその口臭も。はっきり言って腐臭だった。しかしどうしたわけか、今では愛おしいのだよ、アルコール依存症のヤニねえちゃんよお?」彼には画面が止まっていることなどどうでもよかった。変顔で止まっていることも。彼はつぶやき続けた。いやもはや実際に声に出して言っているのではなかった。自分の声さえも聞きたくなかった。「道を歩いてるとな、ハエのぶんぶん飛ぶ音が聞こえてきたんだよ。もちろん可逆的なのでわしはすぐに外からでも確実に腐臭がにおってくるお向かいさんちのことを思った。あれからなにもかも変わっちまったんだよ、わかるか、タンクトップねえちゃんよお? 世界一大事なものを失うってことが人心を変えると思うか? わしの場合は変わらなかった。すぐに元に戻ったよ。例の汚水の音もすぐに復活した。あの音が人の話す声に聞こえる現象も当たり前のようにな。悪人の声だよ。この世界に悪人が本当に居るとしたら、そいつらからは必ず汚水の音が聞こえるはずだ。その意味では母さんが発していたのは明らかに汚水の音ではなかったのだよ。だから心の底から愛おしい。わかるか、有名歌手気取りのねえちゃんよお? もちろん、わからんでいい。しかし、再三言うようだがわしは疲れたのだよ、もう」彼はそこまで言うと、いや正確には念じると、今までにないほどの深いため息をひとつつき、ブラウザを閉じ、キーを打つ行為に集中しようとしたが、やっぱり聞こえていた。汚水の音が、はっきりと──。「疲れたのだよ、もう──」壁掛け時計が午前4時過ぎを示していた。「寝ろよ、ねえちゃん」


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