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ちほさん

心のあたたかくなるお話を じっくりと書いてみたいです。

性別 女性
将来の夢 図書館にある子どもの本を全て読むこと。 童話作家になること。
座右の銘 たいせつなのは、どれだけたくさんのことを したかではなく、どれだけ心をこめたかです。(マザー・テレサ)

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いつでも傍に

16/08/01 コンテスト(テーマ):第115回 時空モノガタリ文学賞 【幽霊 】 コメント:0件 ちほ 閲覧数:490

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 花開く春も入道雲が沸き立つ夏も木の葉の舞う秋もしんしんと寒い冬も、いつも一緒に暮らしていたい。それが二人の願いだった。しかし、長い人生を幸せに生きてきた彼らにも、不安はいつも胸の横にそっと居座っていた。それは、ときに妻の心を食い破ろうとするかのように痛みを運んできた。それに耐えかね、妻は愛する夫に尋ねた。
「あなたがいなくなったら、わたしはどうしたらいいの?」
 夫はいつだって答えた。
「いつでも傍にいるよ」
 八十六歳になった妻は、夫が九十歳を過ぎても無邪気にそれを信じ続けていた。だから九十三歳で倒れた夫を見て、とても驚いてしまった。今までの夢のような生活の裏に、こんなにも重い現実が横たわっていたのだ。
 離れたくない、別れたくない。握ってくれる温かな手があるのに、これが消えてしまうなんて。彼女は夫のベッドに潜り込んで、夫の肩に頬を寄せた。彼女は、すすり泣くように訴えた。
「わたしも連れていって。お願いだから」
 夫は手を伸ばし、妻の髪にそっと触れ、そして額に手を置いた。
「いいよ。一緒に逝こう」
 妻は安心して、そっと目を閉じた。夫が亡くなったのは、翌朝のことだった。
 桜の散る中で、残された妻は泣き濡れた。そんな彼女の傍らには、いつも夫が幽霊となって寄り添っていたのだが、妻はまったく気づかない。彼女が泣く度に、夫はオロオロしていた。死ぬ前に、『一緒に逝こう』ではなく、『死んでしまってもお前の傍にいるから』と言っておけばよかったと後悔するが、今さらどうしようもない。夫は、手を伸ばして妻の頬に触れようとしたが、すり抜けてしまう。声も届かない。妻が哀しみに沈んでいる間、幽霊の夫は彼女に何かしてあげられないだろうかと考えていた。彼女の哀しみが少しでも軽くなる何かを探し……そして見つけた。
 居間の壁に貼られた何枚もの写真の内の一枚に、夫は息を吹きかける。ひらりと畳に落ちた写真にさらに息を吹きかけて、それを妻の傍まで運ぶ。妻は、写真にのろのろと手を伸ばした。彼女の目に小さな光が灯った。彼女は小走りで隣室に行き、何冊ものアルバムをひらいた。彼女の唇が、そっと笑みの形になる。
 隣の奥さんは「旅行は、お止しになった方がいいわ。わたしたちは、もう若くはないんですから」というが、妻は「夫と共に訪ねた土地を巡るんです。一番大切な場所にも行く予定ですの」と朗らかに言う。そんな妻の隣で、幽霊の夫が嬉しそうに頷いていた。
 旅の間、妻は慣れない地図や時刻表にあたふたし、夫は届かない声で必死になってその説明をした。妻が道に迷えば安心させる言葉をかけて行き先を示すが、声は届かない。それでもようやく最終目的地・花の楽園に辿り着いた。
 薄い霧が、世界最大の花園を幻想的に見せていた。人の声は聞こえず、鳥の声もなく、聞こえるのは風が花々をざわりと揺らす音のみ。ポツンと取り残されたように置かれた二人掛けのベンチに、妻はただ一人で静かに腰を下ろした。夫は妻の目の前に屈んで、うつむいたままの妻を見ていた。
「……あなたは、ここにもいなかった。ほんとうにこの世のどこにもいないのね」
 妻が、溜息と共に呟く。ここは、一番の想い出の場所。遥かな昔、ここでプロポーズされたことは、今でも鮮やかに記憶に残っている。
「わたしはあの時と同じように座っていて、彼が目の前にいて、そして……」
 ゴォーっと風が鳴り、花々が激しく揺れ、妻のひっつめた髪からもピンが抜け落ちた。彼女は、慌てて髪を押さえ、目をキュッと閉じた。風が静まり、そっと目をひらくと誰かの右手が差し出されていて、その上にピンが乗っている。その手の懐かしさにハッとして、それにつながる腕にまで視線を上げた。次に、その人の肩にまで視線を向け、そうして……勇気を出して、手や腕や肩の持ち主の顔を見た。
「あなた……いたの?」
「いたよ、いつだってお前の傍に」
 死んだはずの夫の姿が見える奇跡に、妻の目に涙があふれた。震える手で夫の腕に触れる。肩も頬にも。妻は泣きながら夫に抱きつき、夫は妻の細い身体を優しく抱きしめた。
「お前が死ぬまで傍にいるよ」
「死ぬまで?」
「そう。そのときが来たら、僕が方向音痴のお前を天国まで道案内する」
 大真面目な夫に可笑しくなって妻は笑った。
「この旅で何度も迷子になったね」
「あら、見てたの?」
 しばらくして、夫の姿がまた見えなくなった。が、もう妻は泣かなかった。彼女は、自分と夫がこの世にいたことの証に、夫との二人旅の写真集を出版することに決めた。目標に向けて動き始めた妻の隣には、いつも夫がいた。それを妻は知っていて、ときどき目には見えない彼に話しかける。
「表紙には、ほんとうにこの写真でいいかしら?」
 頷いてくれている夫の姿が見えるような気がして、妻はにこりと微笑むのである。


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