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yoshikiさん

面白い作品を知り、自分でも書いて見たくなって何年も経ちました。よろしくお願いします。 2010年 小説現代S&Sコーナーに初めて送った作品が掲載されました。作品名『幽霊の見える眼鏡』 とにかく面白いものが書いていけるといいなと思っています。 イラストはエアブラシと面相筆で昔描いたものです。

性別 男性
将来の夢 楽隠居
座右の銘 不可思議はつねに美しい、どのような不可思議も美しい、それどころか不可思議のほかに美しいものはない。アンドレブルトン

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獣の刻印 1

14/04/06 コンテスト(テーマ):第二十八回 【 自由投稿スペース 】 コメント:0件 yoshiki 閲覧数:716

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※連載をアップしてみました。変身ものです。注 残酷描写を含みますので興味のない方はスルーしてください。

 1

 碧川貴子(みどりかわたかこ)は夜の静寂(しじま)に浮かぶ汽船の灯りをぼんやりと心の奥の鏡に映していた。その淡い灯は霧の中に浮かんでは消え、心の中にあえて刻まれるでもなく幻のようだった。
 彼女がいるのは湾岸沿いに建てられた洒落たラウンジバーで、ラウンジの二階から広い道路に掛けて螺旋階段が伸びていた。沿岸に霧が掛かるとラウンジ自体が海に浮かんでいるように見えた。
 碧川はラウンジバーのカウンター席に座り、自家製カクテルについてのマスターの熱心な説明を聞いていた。マスターに勧められるままカクテルを飲み干し酔いが回る。初老のマスターをこれだけ情熱的に饒舌にしているのも、ミス何々と肩書きの付きそうな彼女のその美しさに起因していると言っても間違いではなかったろう。
 歳の頃なら二十代後半であろう、磁器のように透き通った白い肌。瑞々しい黒髪。大きな瞳が夜空の星々を映している。人懐っこそうな額の禿げ上がったマスターは、オリジナルカクテルを自信有り気に、しかもちょっと、はにかんでカウンターに置いた。やや水色がかった殆ど透明なカクテルだ。グラスの縁に塩であろう粉が付いていた。
「これは清酒をベースにしたカクテルですよ。雪国と名付けました」
 マスターが微笑んでグラスをカウンターに静かに滑らせた。碧川が含み笑いをしてグラスに口を付けた。
「雪国? 名前はどこかで聞いたことがあるけど、おいしい」
 碧川が眼を輝かせるとマスターがウインクして見せた。その日、碧川は久しぶりに女友達に会い夕食をして別れ、この初めての場所に一人で訪れたのである。一人暮らしのワンルームマンションに帰り、一人の少年の死の為に涙を流す自分には、忌々しく腹が立ったし、少年を見す見す死なせてしまった罪悪感と戦うのにも疲れ、うんざりとしていた。
(ここに出てきた少年については後々書いてゆく)ましてやこのロマンティックな夜に一人膝を抱えて寝てしまう身の上を思うと遣るせなかったし、全てを忘れて酔いしれてしまいたかった。そういう精神の脆さ、危うさを抱えて碧川はこのカウンター席に座っていたのである。 
 アンティークなジュークボックスから掠れた声の女性ボーカルが流れていた。知らない曲だったがその悲しい響きに碧川は心を惹き付けられた。彼女はチェリーレッドの胸元の開いたショートドレスを着て、しっとりとした花柄のレースを肩から纏っていた。まるで披露宴の帰りのような姿である。
「誰? マスターこの曲、誰の曲… 悲しい歌ね」
 視線をカクテルグラスに注ぎながら碧川が質問をすると、マスターは肩をすくめ掌を返して、さあ、判らないというジェスチャーをした。指先でグラスをゆっくりと回転させながら碧川が溜め息をついた。

 2

「ジャニス・ジョプリン」
 不意を突いた様な、その落ち着いた声は1メートルほど離れたカウンター席にいた青年から発せられた。気配すら無く、全く青年は忽然とその席に座っていた。薄いブルーのワイシャツを素肌に着ていて、その上に濃紺の革のジャケットを羽織っている。なにか物思いにふけるようで、野性味のある鋭い眼光を保有している。ワイシャツの下には強靭な筋肉が隆起していて痩身ではあるが、ひ弱さを一切感じさせない。
「伝説のロッククイーンですよ。27歳の若さでこの世を去った。今流れている曲はサマータイム……」
 碧川は夢見るようにその声に反応した。黙って青年を見つめる。
「酒とドラッグの常習者。薬に溺れた彼女は愛に餓えていたんですよ」
 そう言う青年の口調は静かであったが妙な迫力を伴っていた。暫らく沈黙がその場を支配してしまったが、碧川が思い返したように口を開いた。
「まあ、お詳しいのね」
 いつになくうっとりとしたような一瞥を青年に向け、興味を示した。
「漫画を描くのが得意な少女は、いじめられて育ったんだ」
 言い終わらないうちに青年は碧川の傍らにぴったりと座った。マスターに一瞬、嫉妬の表情が浮かんだがすぐ営業笑いをつくった。
「詳しいんだねえ。お客さん。私は酒にかけちゃ博識なつもりだが音楽の方はどうも苦手で」
「お近ずきに一杯おごらせてください」
 青年はマスターの言葉を全く無視してそう言うと、ボルドーワインをボトルで注文した。  
 長髪で、首筋にシルバーの太いネックレスを光らせ、甘いマスクでいて精悍さを内に秘めている。筋肉質の腕がボトルを開けグラスにワインが満ちていく、ホスト風でもあるがいやらしさを微塵も感じさせない。
 ――まるで青年は静かにたたずむな獣のような、形容のしようもない雰囲気を漂わせていた。
「初めての方にこんな事されても困ります。それにもうわたし飲めないし」
 碧川が困った顔をした。
「いいんですよ。ここはそういう場所なんです」
 自信に満ちたしゃべり方をする青年の瞳には、なにか燃えるようなものが貼り付いていて、野生の臭いが漂っている。碧川は知らぬ間に青年に惹かれ始めていく自分の心に驚きゆっくりと微笑みながらワインを口に運んでいた……。
 もし陽と陰の双方の魅力を定義してこの青年に当てはめるなら、明らかに後者であろうと、おぼろ気ながらに碧川は推察した。
「こういう場所にお一人で来たからには、失恋でもしたのですか?」
 出し抜けの青年の質問だったがまったく嫌味が無かった。
「失恋もなにも、もう何年も恋なんて無縁でしたわ。そんな風にわたし見えまして?」
 碧川は悪びれる様子も無く答えて、前に垂れた黒髪をかき上げて、わざと笑顔をつくった。
「あなたほど美しい方を放っておく男どもの気が知れないな」
 青年の眼は神秘的にキラキラ輝いている。
「お世辞でもうれしいです。美しい方なんて」
 顔がほんのり赤くなる、酒のせいもあったがそれだけでは無論ない。碧川は美しいという垢抜けない形容詞を何度も使われてきた女性であったが、それでも悪い気はしない。彼女には六年前、在学中に一人の恋人がいたが、彼は別の女をつくり碧川の心に深い傷を残してその恋は終焉を迎えた。あの狂おしい彼との最後の夜が昨日のことのように身を焦がせた。打ちのめされ、泣き濡れた日々が思い出されたが、はっきりした原因は今も判らないのだ。考えてみるとここ何年も碧川を異性として意識し付き合う男性は皆無だったのだ。東道夫という少年以外には……。

 3

「俺は人の心を読むのが得意なのさ。読んでみましょうかあなたの心」
 青年は目はラウンジバーの大窓から覗く星空を眺めている。
「ええ、よめるのだったら読んで見てください。どうぞお願いするわ」
 ちょっと、嬉しそうで碧川の頬は赤く火照っている。
「まず、あなたは目の前の俺という存在に興味を引かれた。無償に俺の氏素性を知りたがっている」
「それで… あなたはどこの王子様? よろしかったらあなたのお名前が知りたいわ」
「こんなところで名をきくなんて野暮じゃないですか」
「今あなたが言ったように氏素性が知りたくなったの。あなたの」
「俺は望月丈と言います。でも偽名かも知れませんよ」
「も・ち・ず・き・じょう… へえ。素敵な名前。ところでわたしの心をもっと読んでみて」
「あなたは、人の良い夢想家の魚座で小さい時から看護師か医者になりたかった」
 碧川がカウンターに肩肘をついて腕に顎を乗せる。気持ちのよさそうな表情だ。
「へえ、確かにあたしは魚座よ。当っているわ。でも人が良いかどうかは分からないわよ」
 まるで少女のように興味を示して青年の話を聞いている。
「あなたは…… やはり失恋をした。相手は少年だ。驚きました。そう、少年に恋をしたんだ」
 青年は碧川の眼を覗き込むようにしてそう言い放った。碧川は不用意に真実を突きつけられたような気がして、急に不愉快になった。
「なにを言いだすんです。大はずれです」
 酔いが急速に醒めていき憤りが胸に湧き上がった。視線は悲し気にあたりを彷徨った。心の中に冷水を浴びたような表情だ。
「悪気は無かったのですよ。許してください。どうやらあなたの心に土足で上がりこんでしまったようですね」
「わたしもう帰ります」
 静寂があたりを支配していた。光るものが碧川の頬を伝った。碧川が席を立とうとすると青年の浅黒い手が碧川の腕を掴んだ、ワイシャツの捲くれた腕に錨のタトゥーが彫られている。
「お嬢さん。そんな悲しい顔のままじゃ今夜は帰しませんよ」
 青年は落ち着き払った声を出した。見知らぬ異界の獣のように眼差しに威力があり、碧川は夢遊病者のようにカウンター席に力なく再び腰を落ち着けていた……。

 4

 湾岸の径の上空に満月が煌々と照り映えていた。時おり気まぐれな雲がその丸い明かりを遮ろうとするのだが、その怪しいまでの月光は、夜の中の二人の姿をはっきりと映し出していた。野生の眼差しを保有する青年と、白い能面のような横顔を持つ女性。
周りは黒い化石のような倉庫の壁と、松の木が所々に点在していて、このまま歩き続ければ、遠い異国の地にでも行き着くような錯覚まで覚えるようだ。
 碧川貴子の心は思考の狭間で揺らいでいた。このまま青年に手を引かれ遊女のように身を任せてしまいたいという自分と、今にでも青年の手を振り切り、逃げ出してしまいたい自分。どちらとも偽りのない碧川の心情であり、女の性(さが)であろう。
「どこまで行くの? 道が暗いし、なんだか怖い」
 碧川が蒼白い頬のままレースをより強く肩に巻きつけて、寒そうにそう呟いた。それを聞いた青年が歩調を緩めて、微かな笑みを顔に湛えた。
「人目のつかない所で、あなたとキスがしたくて」
 臆面もなく青年が言って相手の反応を覗う、碧川がちょっとたじろぐ様に歩みを止めた。
「――わたし、やっぱり帰ります」
 青年の事をまだ何も知らないし、頑なな碧川の心がそれを拒んだ。酔いも醒めて辺りは夢の装飾の剥げ落ちた薄気味悪い倉庫街だ。
「帰るって、この時間じゃあ電車もない」
 仕方が無いといった表情を青年がした。
「あなたが悪い人とは思えませんけれど、初めてお会いした方とこんな、もっとよくお互いを知った上で……」
「行きづりの恋さ。野暮なことを言うなよ」
 青年は飄々としゃべって、碧川の瞳を見つめた。月光が青年の守護神のように光を増して二人を包んでいる。碧川はまるで魔法にかけられたように青年に魅了されていく自分を自覚していた。

 5

 しばらく沈黙が続くと青年の眼差しが不意に、碧川を離れて、倉庫の立ち並ぶ暗闇に向けられた、赤錆だらけのドラム缶の置いてある真っ暗な路地である。そこに向けて青年は張りのある声を出した。
「いいかげん、そんな所で潜んでいるのはやめないか。何か用でもあるのか」
 碧川が整理の付かない表情で上背のある青年を見上げ、青年の視線の方向を追いかけた。
 すると闇から、ぬっと二人の男が現れた。前に茶色のサファリハットを深々と被ったサングラスの男と、後方には2メーター近い大男だ。
 その二人は尋常でない雰囲気を身に纏っていた。凶悪で底知れぬ憎悪が顔に滲み出ていた。年の頃なら二人共三十前後であろう。闇から出現した二人と青年とがお互いをはっきり見定めると、サングラスの男がしゃがれた声を出した。
「なんだい。ハードなラブシーンを期待してりゃ、いつまでたっても始まらねえじゃねえか。じれってえな」
 そう言うと、サングラスの男は薄い唇をひん曲げて醜怪な笑みをつくった。薄っすらと無精髭を蓄えグレーのジャケットを着て、皮の手袋をしている。身長は170センチ位だろう。
 後方の大男といえばボディビルダーのような堂々たる体躯をしている。黒いTシャツを着て、首元に金のネックレスを何重にも巻きジーパン姿だ。染め上げた金髪。眼に狂気を宿している。手に持った金属バットがこの男の異常性を物語るかのようだ。
 碧川は恐怖に捕まって、反射的に青年の後ろに下がった。青年は顔色ひとつ変えていない。
「俺達は見世物じゃないんだぜ。どうしても見たいんなら、高額な見物料でも貰おうじゃないか」
 青年が相手をちょっとからかうように言った。
「なにを。とぼけた事を言いやがる。度胸だけはいい野郎だ」
「何か俺達に用でもあるのか。どうしようと言うんだ」
「ちっ。キザ野郎。かっこつけやがって!」
 サングラスの男が殺気だった。気の短い粗野で凶暴な性格が顔に表れている。
「金か。それとも女が目的か」
「両方だ!」
 大男が太い声を出した。
「あいにくだが、お前達に何もやる気はない」
 青年が顔色一つ変えずにきっぱりと言った。
「うるせえ!」
「うるさいほど大声は出しちゃいないさ」
「な、なめんなよ。このホスト崩れが。女も金も俺らが頂く。だがその前にてめえの甘ったれた面をずたずたに切り裂いて、女を二度と抱けないように痛めつけてやる。半身不随のクズ野郎にしてやるよ!」
 そう言うサングラスの男の眼がメガネの下で残忍な光を放った。
「この人達、新聞に出ていた二人組みだわ、深夜に人気のない場所に出没して、若いカップルばかりを狙うの… 指名手配中よ。この二人」
 畏怖の念を抱いたまま、碧川が青年の後ろから囁くように耳打ちした。
「逃げましょう」
 碧川の悲痛な声だ。
「おとなしく帰ったほうがいい。この出来損ないども。カップルへの嫉妬かい? その二人の面じゃお世辞にも女にはもてそうにもねえ。指名手配されたんじゃ、いずれ捕まっちまうな。自首でもするんだな。多少罪も軽くなるさ」
 青年は動じない。何か超越したような野生の息吹を身に纏っている。
「ふざけんな! てめえ。生意気な口ききやがって! 喧嘩に少しは自信があるようだな。面白れえ。そのへらず口が利けなくなるまで嬲(なぶ)ってやるぜ」
 大男が凄みのある声で言い、サングラスが拍車をかける。
「こいつは正真正銘の殺人狂だ。総合格闘技の戦士だったんだぜ。相手に手加減出来ないで何人も殺しちまった。凶暴過ぎて格闘技界を追放された奴なんだ」
「それがどうした。てめえの力のコントロールも出来ない低脳野郎ってわけか。そんなんじゃこの世を生きてはいけないぜ」
 青年がゆっくりと言った。大男が憤怒して眼が血走っている。顔面は真っ赤に昂揚していた……。 

 6

 青年と大男とが向かい合っている隙に、サングラスの男が碧川の背後に動いた。二人を金輪際逃がすまいとする周到さだ。腰のベルトに括り付けてある刃物をおもむろに抜き出す。刃渡り20センチはあろう月光に不吉に煌めくサバイバルナイフだ。
 サングラスのはめた皮手には、どす黒い染みがある。最近立て続けに人を刺したので血の染みが残ったままなのだ。
「てめえ簡単には殺さねえぞ。目玉を抉り出して、てめえが命乞いするまで甚振(いたぶ)ってやる。でも最後には死んでもらうがよ」
 大男が気違いじみた大声を出した。青年の注意をこちらに向けさせて、後ろからサングラスの男がナイフで致命傷を負わせる気なのだ。二人の阿吽(あうん)の呼吸である。
「俺を怒らせると後悔するぞ。逃げるなら追わない。よく考えろ」
 青年の口調は落ち着いていた。顔は喜怒哀楽と無縁な氷の彫刻である。
 次の瞬間だった。サングラスの男の左手が碧川をつき飛ばし、それと同時に右手のナイフが青年の背中にひらめいた。しかしサングラスの男は青年の背中を見失って、バランスを崩した。危うく前にいる大男の腹にナイフが届きそうだ。
「げっ! 野郎」
 体勢を立て直し、サングラスが忌々しそうに唇をかんだ。急いで振り返るが青年の姿がない。
「野郎、どこへ行きやがった」
 大男もハイエナのような目つきで辺りを見渡すが青年はいない。それは瞬間移動とでもいうのか、人間の運動能力をはるかに上回った青年の動きだった。一分程の沈黙がその場を支配した。
「野郎。女を置いて、てめえだけ逃げやがった。能書きだけで、からきし意気地の無いオカマ野郎だ」
 大男が悔しそうに、野獣のような眼をぎらつかせて吼えた。青年のいた場所に碧川だけが取り残された。殺風景な路地にチェリーレッドのドレスがなんとも艶やかだ。その場にしゃがみ込んで息を潜めている。小刻みに白い肩が震えていた。
「へえ、こいつはいい女だ。オカマ野郎を八つ裂きに出来なかった代わりに、今夜はお前の身体でたっぷりと楽しませてもらうぜ… 俺らに嬲(なぶ)られた女は大抵発狂して死んじまうがな」
 サングラスの男が卑しい笑みを浮かべ、腰のベルトのシースにナイフを収めて、碧川のほっそりとした腕をぐいっと引っ張った。
「さあ。俺らを丁重に接待してもらおうか。お前の身体でな」
 サングラスが実にいやらしい笑みを漏らした。
 が、次の場面で信じられない出来事が起こった。サングラスの男の身体がその場から突然喪失したのである。いや、一瞬喪失したかと思えたが、なにか途方も無い力がサングラスの男の身体をその場から、運び去ったのである。
 あえて例えるのなら大型ショベルカーに摘まれて、別の場所に放り出されたような格好だ。鈍い音がしてサングラスの男の肉魂が倉庫の鉄製の壁に叩きつけられた。
 呻くような「うぐえっ」という、声とも叫びともつかないものがした。サングラスの男が倉庫の壁にへばり付いて、ゆっくりと下にずり落ちた。肩の関節が外れ、あばらが数本へし折れている。
 その黒い怪物は幻のようなその姿を月光の中に現した。漆黒の体毛を風になびかせ、大きく裂けた口とサーベルのような牙を所有していた。獰猛な猫科の獣だ。
 ――それは巨大な黒豹であった。さすがの大男も背筋に悪寒を走らせた。

 7

 サングラスの男は苦痛にのた打ちながらも、這うような体勢で腰のナイフを右手で引き抜いた。しかし瞬間に黒豹の口がナイフを咥え取って海岸のほうに投げ上げた。ナイフが空中に消えて着地の音さえしない。黒豹はその鋭い牙を無造作にサングラスの男の首筋に埋め込んで息の根を止めた。
 ゆっくりと黒豹の頭が下から上に持ち上げられ、大男の顔あたりに焦点が合わされた。
 黒豹は開け放しの口から鮮血を垂らして、獲物を追い詰める動作で大男の方に向かう。大男が恐怖に顔を引きつらせながら後ずさる、しかし後ろを倉庫の冷たい壁に阻まれ背中を壁に押し付けて止まった。  
 黒豹が二本足で立ち上がると身の丈2メートルを超えるほどだ。大男が気でも違ったように金属バットを振り回す。なんども金属バッドが黒豹に的中しているのだが、その鋼のような筋肉はその度に収縮して、全くダメージを受けない。その体は強靭な鉄の鎧だ。
 いつの間にか大男は数センチの距離で黒豹の鼻先と対面していた。
 猛獣の臭気が鼻を突く。黒豹の眼が燻(いぶ)し銀のように光り、豹の口が大きく見事に開かれると大男の顔がすっぽり、黒豹の口の中に入ってしまった。「うぐっ」という悲痛な喘ぎ声と、頭蓋骨の拉(ひしゃ)げる音がした。大男の頭部の前半分が黒豹の刃によって喰いちぎられたのだ。バットを振り回す手がまだ宙を踊っていて、全身に小刻みな痙攣が走る。血の海の中で大男は壁に張り付いたまま絶命したのだ。
 碧川はすでに昏倒していて意識がない。
 
 望月丈の心の淵底で暗い炎が燃え滾(たぎ)っていた。ぬるりとした血の味が望月を獰猛な眼をもつ野獣に変えていた。満身に疾風のように力が漲(みなぎ)っている。大男が息絶えたのを確認すると、黒豹は月光に浮かび上がった黒髪の女に近づいた。
 碧川は蹲(うずく)ったまま眠るように意識が無い。牙の生えたその口が白い喉笛を襲おうとして
「かしっ」
 といって宙で歯が噛み合わさった。黒豹は野蛮な衝動を堪えたのだ。いやその時、野獣の中を望月丈の心が一瞬、過(よ)ぎったのだ。ぎりっと奥歯に力がこもる。途端に黒豹の心の湖面に波頭が広がった。
「駆けろ、どこまでも駆けろ、力尽きるまで駆けろ!」
 黒豹の中で望月丈の人間らしい心が何度も叫んでいた。
「この場から去れ、一刻もこの場に居てはならぬ。ただちにこの場から去るのだ!」
 黒豹の背中が地面に深く沈み込み、全身のバネが弾けると、強靭な後脚が力強く地面を蹴った。土煙が上がり豹の巨体が重さを失ったかのように月夜を切り裂いて走った。羽のようであり、矢のようであった。電光のようであった。
 走った。どこまでも走った。野獣の狂った本能が少しずつ失せていき、望月の人らしい心が取り戻されていく。引き換えに懺悔と、怨念とが入り混じったような苦渋を飲む想いが望月を襲った。心が張り裂けそうだ。
「なぜだ、なぜだ! いつから俺はこうなった。どうしてだ。どうして!」
 繰り返し、強迫観念が胸郭を締め付ける。
「わからない! なぜ俺は獣になったんだ」
 心の淵底で暗い記憶が少しづつ呼び覚まされる。
人物の肖像が心のスクリーンに投影される。ぼやけている。何度もピントを合わせようと試みる。そしてようやく焦点が結ばれた。額の広い壮年の男の顔。
「そうだ! 俺は奴に獣にさせられたんだ。忘れるものか、忘れてたまるか!」
 暗闇の中で不気味にほくそ笑む男。その男の名は黒川仁。食い殺したいと思った。八つ裂きにしても飽き足らないと思った。
「しかし」
 とまた心の声が言った。
「今はだめだ。今奴を殺せば、お前は二度と人間に戻れないかもしれない。野獣を抱えたままお前は狂わずに生きて行けるのか!それならいっそ、死んだ方がましではないか!」
 ――満月の夜の中を黒い獣が全力で疾走した。
 その眼光は悲壮で、それでいて力強い迫力に満ちていた……。



                             つづく


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