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くまなかさん

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満員電車

17/04/21 コンテスト(テーマ):第104回 【 自由投稿スペース 】 コメント:0件 くまなか 閲覧数:247

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 人身事故で電車が止まった。この瞬間ほど、悪意が高まる時を他に俺は知らない。金を失った、職をうしなった、もしかしたら家族や、恋人、そういう金では賄えないものをなくして――あるいは漠然とした絶望で。命を失う人を、これだけの人数が一斉に恨むのだ。足の下に線路さえなければ、行く先が時間に厳しい職場、あるいは容赦なく始まるコンサートでなければ。この人達は口々に”大変だっね””辛かったね”そういう言葉でねぎらうところを、手元のスマホで一斉にSNSへ”迷惑がかからないところで死ね”と書き連ねる。
 俺も一昨日の金曜日はそうだった。けれど、本当に。死にたいと言う欲求は突然くる。トイレに駆け込みたいほどの勢いで、死ねるところに入りたくなる。この世界から、自分を排泄したくて仕方なくなって、そこに電車があるのなら。鉄籠に一両百六十人かける時速八十キロの鉄の悪意の塊がどんと俺を跳ねた。余り書くとぐろいので、俺はばらばらになったとだけ書いておく。おおきなずたぶくろが収まった棺の前に、思春期の娘がぼうぜんと立ち尽くしている。妻は淡々と生命保険会社に電話をしている最中で、泣いてくれるものとばかり信じていた。娘の第一声は「大学どうすんの?」で、妻の第一声は「電車を止めると高いと言うけれど」。俺はなにも期待しなくなった。
 けれど、卒論を迎える娘のこれからに、俺が味わったような、猛烈な人生の排泄と、それを引き起こす腹痛だけは味わって欲しくないことだけは確かだ。
 娘がどこかへ電話をしている。「お父さんが、お父さんが……」可愛らしく泣いている。相手がおばあちゃんだったり、せめて女友達ならば俺もここまで絶望をしなかったし、寧ろ嬉しさ可愛らしさで成仏できたが『大丈夫、落ち着いて。俺が居るからね……』受話口からは気障ったらしい男の声がするし「ごめんね、たっくん……愛してるって言って」悲劇のヒロインになりきった娘は、あろうことか「ごめん、お母さん。辛くて一緒に居られない」彼氏の家へ行くようだ。妻も止めずに「大丈夫、お母さんのことは心配しなくていいから」そんなきれいな言葉で娘を送り出した。
 たっくんは高卒だ。免許と言えば機械整備に関する事が幾つかと、一応車の免許もあったか。もちろん免許が要る仕事だけが全てではないし、どんな仕事でも誇りを持って取り組むのは素晴らしい。けれど、たっくんは年収三百万に足りない。悪い男ではないと思う。中肉中背、顔も平々凡々。黒縁のインテリぶった眼鏡は気に食わないが、昨日の日曜日に紹介された時には、ユニクロとはいえ新品の、今時らしいさらりとした服装で、慣れない正座なんてして、靴を履く時にころげたぐらいには真面目で、娘曰く、いちごに目がないらしい。
 ただ、繰り返して申し訳ないが、年収三百万に足りない。
気に食わないな、と言った俺に、妻は「誰だって最初はそんな年収よ。もっと低い人だっている」やんわりと彼と百万しか変わらない年収の俺を罵った。
 保険会社の窓口が閉まる時間になってから、妻が、そうっと棺桶の蓋を外した。俺は大きな袋に詰められていて、気分はまるでソーセージだかウィンナーだかなのだが、妻はやっぱり泣きもしない。罵られる事を覚悟して、彼女の背後でファイティングポーズを取るも、妻は「……ごめんね。お疲れ様でした」ここにきて漸く、泣いた。子供の前では泣くまいとしていたのだろう。
 俺は、ものを掴めない腕をだらんと垂らした。俺も妻も同じ年だから、不惑半ば。若くで死んだ友達もいたし、妻の母に至っては既に俺よりさきに天国に居る。思えば、その時に俺もたっくんと同じような甘い言葉を言っていたかもしれない。
「ごめん……ごめんなさ……」
俺は、無性に彼女を抱きしめたかった。けれど出来なかった。ばらばらになって、あまつさえすけすけの網膜に、泣きじゃくる妻は余りに小さくて、こどもみたいで、かわいそうで、なんだか恋が始まった時の、甘酸っぱいあの感じに似た感情ばかりがぐるぐるしている。

 俺が外れたこの一家はそれぞればらばらに喪に服した。飲めなかった妻は酒に手を出し、心療内科の薬とちゃんぽんをして、家の中を散らかしたまま眠り続け、娘もそんな家が重かったのか、たっくんの家に入り浸って、たまに母を労っている。ここにきて、ようやく俺は月曜日の朝、もうれつに人生を下した理由に気づいた。俺と、妻と、一人娘。罵り合いながらも三つで安定していたのに、そこから一つ外れたら、きっとどさりと離婚していただろう。妻は喘息の気配があったから、動物は飼えないし。
 娘は本当に、妻を病院へ送り迎えをして、時々カレーやシチューを煮込んで、またたっくんの家に帰った。娘が居ては妻が泣けないし、娘もきっとたっくんが支えてくれているのだろう。高校に入った時に大きくなったとは思っていたが、こんなにおとなになっていたなんて、お父さんは知らなかった……いいや、違うな。知りたくなかった。
 そうして四十九日、坊主の説法が終わった後、娘は思い切ったように妻に「あかちゃん出来たかもしれない」と告げた。妻は薬が強くなっていたから、すこしぼうっとした顔で「ふうん」と頷き、それでも「大学は」娘の将来を気にしている。
「やめるよ。お父さんの保険金は、お母さんが元気になるのに使って」
妻は「馬鹿じゃないの」今の状態でも、きちんと、叱った。「そんな風に気を使わないで。休学して産んだら? お母さんが面倒を見るから」それが、うんと精一杯の意地というか、何か、生きている間俺にはわからなかった女同士の気持ちのやり取りが、すけすけの胸に迫る。
「やめるよ、産んだらどうせパートだし」
 そんなはずがあるか。お父さんは、お前たちを見守っている。自分で電車に飛び込んだのを遠く棚の上に上げ、二人の背中に念を送り続けた。
 けれど、かわいい娘が病院で孕んだ事を確定して帰ってくると、犬猫ではあるまいしと思ってしまう。お腹の中のものを流してやろうとへそに手をつっこむと、俺の魂にきゃっきゃと笑う明るい声が響いて、俺は思わず、未だ小指の先ほどの大きさもないこどもの頭を撫でる。
妻の顔を見ると、検査結果にぽとりと涙を落としていた。
「おかあさんも、再婚していいよ」
娘は妻の背をさすって言った。俺は複雑な思いだった。もしかしたらあの、人生における猛烈な腹痛というものは、男も女も無い。ただ、男が絶望して線路に落ちるように、女は先ず男に落ちるのかも知れない。それで、あかちゃんと言う希望を据えて、本当に腹を痛めて、人間を産み落とす。もしかしたら、このあかちゃんも、娘自身も、妻も、なんなら今この状態の俺だって。もとを辿れば何処かで俺のように身を投げた誰かなのかもしれない。
「私は、あの人だけでいい」妻が泣きじゃくる。
 なんでもいい。急な妊娠で退学したって、急な死別に再婚したって。彼女達が、あの、満員電車の悪意にさらされないのなら。



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